るりとうわた

日常をつづる

ポーランドとリトアニア

今日ポーランド政府観光局から資料が届きました、良かったです。

題名のポーランドリトアニアというのはお隣同士の国ですが、ポーランドは今年旅行に行く国で、リトアニアは昨年旅行した国です。
近年東欧、北欧と総なめにするほど近辺ばかりを訪れています。(笑)

そのポーランドの下調べをしようと本屋でガイドブックを探してもなかなか見当たりません。
単独でなく、東欧の中に組み込まれ、それも数ページなのでもって歩くには重いのでやめました。
その時にちょうど友人が、ポーランド政府観光局に問い合わせてご覧と教えてくれました。
宛名を書いた送信用封筒を入れて送ると、小冊子とパンフと地図の3冊を送ってくれました。
本当に感謝感激です。

昨年のリトアニアでは「日本のシンドラー」と言われ、6000人もの命を救ったカウナス杉原千畝さんの住まいだった日本領事館を訪れました。

1940年の7月カウナスのこの日本領事館の前に、ナチスに追われ、ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人の人垣ができました。その要求は日本の通過ヴィザで、当時すでにヨーロッパにユダヤ人が安住できる場所はなく、シベリアを経由してアメリカ大陸に(またはオランダの島へ)逃れるのが唯一生き残る可能性を秘めた道だということでした。
当時の日本領事代理杉原氏はヴィザ発給の許可を何度も日本に打つが、ドイツと同盟を結んでいる日本の返ってくる答えはそのたびに”否”でした。

この前年ドイツとバルト三国併合の秘密協定を含む平和条約を結んでいて、リトアニアにもソビエト兵がすでに入場していました。
日本領事も一刻も早い撤去を求められていました、その期日の近づく中、杉原氏は決断を迫られました。
領事館前には群れをなし、救いを求めるユダヤ人達を無視することが出なかった彼は、本国の指示にそむいて、独断でヴィザを発行することに決めました。
「私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかない、でなければ私は神にそむく・・・・」

その後約半月の間に彼は昼夜を分かず、ペンが折れ、腕が動かなくなるまでヴィザを書き続けました。
リトアニアを脱出する列車の中までそれは続き、これによって実際に日本を経由し、第三国にわたることが出来たユダヤ人は6000人を超えると伝えられています。

私たちは今は杉原記念館となったかつての日本領事館で、その功績のビデオを見て、部屋を見学して歩きました。
杉原千畝さんの当時の写真、御家族の写真もありました。
詳しいことがわかりとても感動しました。  (つづく)