るりとうわた

日常をつづる

ワルシャワ(2)


(王宮と王宮前広場)

(広場の中央にある像)

ショパン関連以外では世界遺産ワルシャワ歴史地区の街歩きをしました。
ポーランドの首都ワルシャワは、中世から近代までの歴史的な建物が並ぶ美しい都でしたが、今現在のこの地域は第二次大戦でナチスによって破壊されたものを戦後に復元したものです。市民たちの協力により元通りに復元したという奇跡的な功績が認められて、ワルシャワ世界遺産に登録されています。

NHK世界遺産のページには、復興のリーダー、建築学の教授ザッファトヴィッチさんの娘さんのインタビューが載っています。

破壊は戦闘によるものではなく、ワルシャワを抹殺するというヒトラーの意図で徹底的に行われました。ドイツ人がポーランド人を支配するためです。従って、町の復元は国民的アイデンティティーの復元でもあったと言います。復元にはすべての市民が無償で参加しました。戦時中に教授たちが書き溜めておいた建物のスケッチなどを資料にし、すべての建物の設計図が起こされて完璧な復元がされました。また18世紀に描かれた風景画を元に、街並みそのものも正確に復元されました。教授と市民たちは、最後に王宮を復元させます。王宮がワルシャワの歴史の象徴だったからです。教授はこう言っていました。「歴史を奪われた国民は、存在しないも同然だ」と

この街の破壊の様子が「戦場のピアニスト」にも出てきます。

この映画は1939年9月、ナチス・ドイツポーランドに侵攻した日から、終戦まで生き残った一人のユダヤ人ピアニスト(実在の人物)と戦争を描いた映画です。
1939年ユダヤ人をゲットー(ユダヤ人居住区)へ強制移住させるなどの迫害が始まり、ナチスの虐殺行為がエスカレートする42年ユダヤ人が収容所へ送られるが、上手く免れ、1943年ゲットーを脱出し屋根裏に少ない食料で住むのですが、ワルシャワ蜂起が始まり街は戦場となります。
そのシーンです。

このワルシャワ蜂起は(以下引用文を並べますWikipediaより)
「1944年8月1日旧ソ連軍がナチスドイツに対して攻勢に立ち、ワルシャワの近く10キロのところに迫ったとき、約5万人のポーランド国内軍は蜂起を開始、国内軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃します。
多くの市民が国内軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築き、激しい市街戦が続きます。
ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功したソ連軍は市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、蜂起軍への支援をせずに傍観を決め込む。
しかもソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に向かっていく。
(絵葉書を写真に撮りました)

8月31日には、国内軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出する。9月末には国内軍はほぼ潰滅する。
その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。
10月3日、国内軍はドイツ軍に降伏しワルシャワ蜂起は完全に鎮圧された。市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。


ソ連軍は1945年に入った1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、ソ連軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。」

この大戦での犠牲者は、総人口の5分の1を数え、世界最高の比率だそうです。(外務省)

それ故に、新しい街ではなく、元通りの街の復興が民族の祈り(怒り)であり、そして不死鳥の街とも言われるのでしょう。