るりとうわた

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NO MORE ながさき

8月9日は長崎に原爆が落とされた日です。

長崎は66回目の「原爆の日」を迎え、長崎市松山町の平和公園では、長崎原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典が開かれました。
被爆者や遺族、初出席の米国を含む各国政府代表ら約6000人が、平和への思いを新たにしました。
東日本大震災や福島第1原発事故を受けた今年の平和宣言で、は被爆国が再び放射線の恐怖に脅かされる現状を指摘し、今後の社会づくりに向けた深い議論を呼びかけると共に「原子力に代わる再生可能エネルギーの開発を」と訴えた。また、長崎が廃虚から復興したことに触れ「希望を失わないで」「世界が応援している」と被災地にエールを送った、とあります。
田上富久長崎市長

「『ノーモア・ヒバクシャ』を訴えてきた被爆国がどうして再び、放射線の恐怖におびえることになったのか」と述べ、「自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか……」と問い、「根底からの議論」を呼びかけた。そのうえで「より安全なエネルギーを基盤とする社会への転換」を訴え、48年に始まった長崎平和宣言で初めてエネルギー政策転換に言及した。

 また、「1カ所の原発事故による放射線がこれほど大きな混乱を引き起こしている今、核攻撃がいかに非人道的か、はっきりと理解できるはず」と述べ、改めて核兵器廃絶を世界に訴えた。

この会場には、東日本大震災津波で両親を亡くした岩手県立高田高3年、菊地将大(まさひろ)さん(17)=同県陸前高田市=の姿があり、「人に支えられ僕は今、生きている。前向きに生き、故郷の復興に尽くしたい」と、今夏、スイスの国連欧州本部に核兵器廃絶署名を届ける第14代高校生平和大使の一人だそうです。

菊地さんは、両親と祖母、姉の5人家族だった。津波発生時は、祖母と菊地さんは自宅やその周辺に、四つ上の姉は盛岡市内にいて無事だったが、会社や農協で働いていた両親は波に巻き込まれ行方不明になった。「夕方になっても両親は戻らなかった。電気や水もなく、何も考えられなかった」

 親戚宅に身を寄せたこともあったが、祖母と暮らしながら、自宅から避難所や遺体安置所を回って両親を捜す日々が続いた。安置所で両親に対面したのは3月下旬。ひつぎの窓からのぞいた時、涙があふれた。両親の死を受け止められず、もやもやとした気持ちが続いた。「死に顔を思い出すと悲しくて苦しかった」

 5月中旬、高校の教師を通じて「平和大使」の打診を受けた。長崎市の市民団体「ながさき平和大集会」実行委員会が毎年、長崎県内外から選び、国連に派遣している。気持ちの整理はつかなかったが、面談した長崎の被爆2世、平野伸人さん(64)の話を聞き「大使として活動して前向きに生きよう。被災地代表としてできることをやろう」と応じた。

 6月11日、平和大使の結団式に参加するため初めて長崎を訪れた。待っていたのは、10歳で爆心地から約800メートルで被爆した下平作江さん(76)だった。菊地さんが両親を亡くしたことを告げると、下平さんは、原爆の影響で家族4人を亡くしたことや放射線の影響とみられる病気で何度も手術した経験などを話した。「親子の絆が断ち切られるほど悲しいことはない。負けないで自分の道を切り開きなさい」と励ました。その言葉に、また、涙があふれた。「僕は一人じゃない」。もやもやが晴れた。

 翌日は、他の大使とともに原爆落下中心地で献花、原爆資料館も見学した。

 9日の式典。いつものように父親の形見の時計とタイピンを付けて参列した。「特別なことじゃありません。親も喜ぶと思って。式典には多くの人が参加していて、平和について考えている。ここで感じた思いをジュネーブでも伝えたい」

 震災発生から5カ月になる。津波で浸水した校舎は使えず、隣の大船渡市にある廃校に通う。街のがれきは片付いたがいまだ手の回らないところもある。被災地代表の平和大使は17日、ジュネーブに向かい、現状報告と国際支援への感謝を伝える。【下原知広】

毎日新聞 2011年8月9日 11時52分(最終更新 8月9日 11時55分)


広島、長崎の原爆の日を思うにつけ、NO NORE 二度とあってはならない!と強く感じながら

今こんなに世界に沢山の核爆弾核兵器があり、こんなに沢山の原発があっていい・・・はずがない。

という思いを切実に感じますね。

かけがえのない地球が世界が平和であるために。

無知では、無口ではいけないということでしょう。