るりとうわた

日常をつづる

いい国つくろう〜


本日の民主党の代表戦の結果、新代表に野田佳彦財務相(54)が選出されました。
一枚岩ではない今の民主党では誰がなっても同じような気がしますが、09年9月の政権交代から2年足らずで鳩山由紀夫氏、菅氏に続く3人目の首相で、ここ5年で6人の首相です。
国の権威も信用も薄くなってきていますが、震災に遭われた方たちも私達も日々の暮らしが良くなること、将来に希望のみえる国になることを願っています。
政権政党としてきっちりと仕事をして欲しいと思います。
いい国つくりましょう〜


この、いい国つくろう〜=1192年、という語呂合わせで、私たちは鎌倉幕府の成立の年号を覚えたものですが、今は鎌倉幕府の成立年号は1185年=いいはこつくろう〜だそうです。
そういえば1185年に壇ノ浦で平家が滅亡して、7年間は誰が権力を持っていたか?というと、すでに、頼朝は関東の豪族を束ねていました。
1192年(建久3年)は、源頼朝征夷大将軍(以下、将軍)に任官された年と言うだけで、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続していたのです。
征夷大将軍=武士の頂点=幕府という考え方は徳川家康の頃に確定したようで、頼朝の頃はまだ、武家政治そのものが始まったばかりで定義されたものがなかったということのようです。
上の写真は先日久々に鎌倉に出かけた際に写したものです。

鶴岡八幡宮は、京都の石清水八幡宮を厚く信仰していた源頼義前九年の役で奥州の安部氏を平定した後、康平6年(1063)8月、京の石清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜郷に勧請し社殿を創建した。その後、治承4年(1180),源頼朝が鎌倉入りするや由比ガ浜八幡宮(元八幡)を,この地小林郷に移した。建久2年(1191)には武士の守護神の宗社に相応しく上下両宮の現在の姿に整えた。源頼朝が,この高台に社殿を作った時は、既に平家は滅亡し、奥州・藤原氏も討伐し,全国60余州を平定した時であった。翌年には、征夷大将軍になり、まさに頼朝の絶頂期であった。鎌倉はこの頃は既に、京都と並んで政治文化の中心となっており頼朝は関東の総鎮守となって崇敬されていた。以来、鶴岡八幡宮は常に鎌倉のシンボルであり、幕府の儀式や行事はすべてここを中心に行われた。また武門のシンボルとしても豊臣、徳川家から手厚い信仰を受けていた。

それこそ鎌倉幕府のシンボル的存在のものです。
ただ、大銀杏のない鶴岡八幡宮は寂しいものですね。この写真は大銀杏があった時のものです。
2010年の3月10日に前日からの強い寒冷低気圧に見舞われ、吹雪と強風で、鶴岡八幡宮のシンボル的存在の大銀杏の古木が倒壊しました。
公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名があり、樹齢1000年とも言われる大木でした。
きっと歴史の移り変わりをこの場所で見つめてきたことでしょう。

倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植されたそうです。
また残る2つは境内に保存されているそうで、倒壊から約一ヶ月後、再生への努力が実を結び、若芽が確認されたそうです。
今は黒いネットで覆われ保護され、その若芽の成長を待っているようです。
右の写真の左側の覆いが移植され若芽の出た銀杏の木で、後ろが元あった場所です。




源氏池では睡蓮が実をつけていました。
大きな花なので、花の盛りは見応えがあったでしょうね、いくつか蕾はありました。
太鼓橋の下では花が咲いていました。
   
若宮大路をぶらぶらして、陶器屋で孫にお揃いの茶碗を買ってきました。
うさぎ年ではありませんがうさぎ年に買ったと記憶できます、ただしいつまでもこの量で済むはずもなく、すぐに湯のみ茶碗になりそうです。(笑)