るりとうわた

日常をつづる

騒音歌舞伎(ロックミュージカル)『ボクの四谷怪談』

本日シアターコクーンで、観劇してきました。


騒音歌舞伎(ロックミュージカル)『ボクの四谷怪談

−絃(いと)の調べは七五調 鼓(ドラム)の響きは八拍子(エイトビート)−

本作は、作家・随筆家として多くの名作を輩出しながら、古典文学の現代訳や二次創作にも意欲的な文壇の鬼才・橋本治が小説家としてデビューする前に書き下ろした幻の戯曲です。
ダイナミック且つ繊細な手法で抽出した現代性と鶴屋南北へのオマージュが見事に昇華し、また多種多様な音楽が効果的に挿入されている、橋本氏の<四谷怪談>そして<ミュージカル>への情熱が迸る超大作です。
約40年のあいだ、活字にもされず、しずかに眠り続けていたこの貴重な戯曲を上演すること自体、多くの演劇愛好家にとっては尽きせぬ興味を抱かれるに違いありません。

演出は今もなお演劇界を牽引し続けるシアターコクーン芸術監督・蜷川幸雄、音楽はロックの黄金時代といわれる1970 年代に本格的な音楽活動を開始した鈴木慶一が手掛けます。

強力なスタッフ陣と刺激的で魅力溢れるキャスト陣が集結し、登場人物のねじれた青春が疾走するこの破天荒な物語にどう挑むのか、期待が高まります!

スタッフ: 脚本・作詞:橋本 治 演出:蜷川幸雄 音楽:鈴木慶一
キャスト: 佐藤隆太 小出恵介 勝地 涼 栗山千明 三浦涼介 谷村美月 尾上松也
麻美れい 勝村政信 瑳川哲朗 青山達三 梅沢昌代 市川夏江
大石継太 明星真由美 峯村リエ 新谷真弓 清家栄一 塚本幸男 新川將人 ほか (シアターコクーンHPより)

さらに

ストーリー
「時代は昭和五十一年にして文政八年、さらに元禄十四年であり、しかも南北朝時代。ところは東京都江戸市内」
金髪でTシャツとGパンの民谷伊右衛門佐藤隆太)は職がなく、浅草観音境内で番傘を売っている。
そこで当世人気の文化芸能人、伊藤喜兵衛(勝村政信)の13歳の早熟娘、お梅(谷村美月)に一目惚れされる。
伊右衛門にはお岩(尾上松也)という病身の妻がいるが、伊藤父娘はおかまいなしに伊右衛門に結婚をせまる。
お岩の妹、お袖(栗山千明)にはエリート・サラリーマンの佐藤与茂七(小出恵介)という許嫁がいるが、主君の仇討ちのため東奔西走する与茂七は滅多に現れない。バイトしながら夜学に通うお梅に恋い焦がれるのは、伊右衛門の友人で、何をやってもうまくいかない直助(勝地涼)。
元武士のプライドばかり高い義父の四谷左門(瑳川哲朗)はあっけなく不慮の死をとげ、伊右衛門を妖しい眼差しで見つめる腹違いの弟・次郎吉(三浦涼介)、口うるさい母親のお熊(麻実れい)など、伊右衛門の周囲は面倒な身内ばかり。
やがて、妻のお岩の身に異変が起きる。

この日の席がD列中央よりと、かつてない良席です。
役者さんを等身大で見れますから、終演後は一体誰に惚れて帰るんだろう〜、と期待もしてきました。(笑)
時間も1時開演、15分の休憩を2回挟んで中身は3時間という長丁場です。

で、終わって感想は?というと出てこない・・・
舞台や客席をうろうろする出演者たち、いつもの蜷川演出で、君主制の世なら、しいたげられた民衆や奴隷などですが、今回は特に老人や身障者が多く、どの時代の何を意味しているのか不明でした。
ロン毛にパンタロン、時代は70年代です。
というか、年齢的な問題でしょうか?受け付けませんでした。
そして悪人でもない伊右衛門佐藤隆太)は常に受動的、お岩(尾上松也)の幽霊に悩まされその幽霊と対決するも、お岩は自分自身という(オチ)、なんだ”自分探しで終わる”の?という感じです。
ロックミュージカルと言ってもそれほどでもなく、歌謡曲ありと騒音と題についているように騒音ではあるけれど。
歌の上手い方はお熊(麻実れい)と次郎吉(三浦涼介)とお岩(尾上松也)ぐらいですね。
お岩が歌うわけではなく、最後のお岩=伊右衛門となった時に歌うのですが、良い声です、尾上松也さんの男役に興味がわきます。
熱演はお袖役の栗山千明さん。もちろん皆さん頑張っておられるのはわかりましたが、届くものがなかったです。

などと思っていたら、同じようなことを書いておられて、こちらに共感してしいました。
村上湛さんの古典演劇評論の批評です。
http://murakamitatau.com/hihyo/

だが、テーマ・主題というものは、作者や演出家や役者の側にあるものでは、実はない。
読者によって読まれない戯曲、観客によって見られない演劇、そんなもがないのと一緒だ。
したがって、戯曲や舞台(すなわち作者や演出家や役者たち)と格闘した観客によって自らのうちに刻印される抜き差しならないコトバこそ、真の芝居のテーマ・演劇の主題のはずである。
つまり、芝居とは、演劇とは、常に「解読されることを待っているもの」である。
そうした「内なるコトバ」をけざやかに呼び覚ましてくれるものが、私にとって優れた、感動的な演劇作品だ。

この考え、間違っているだろうか?

今さらこんなことを考えてしまったのは、〈ボクの四谷怪談〉という作品には「劇」が不在。「劇的状況」だけがただただ盛り上がって終わっただけだったから。
主題だのテーマだの、そんな観客のコトバを封ずるところから始まり、終わった舞台だ。

ただもう無意味に盛り上がるだけ盛り上がる、その過剰な虚しさが作者と演出家の「意図」だったとすれば、われわれにとって演劇とは、いったい何であるというのだろうか?

からはじまり

こう概略を記せば、まずこの戯曲は「伊右衛門の自分探し」のドラマだ。
だが、「この世のものならず相好の崩れたお岩は非在の人物であり、彼女は伊右衛門の自意識の産物だった」と総括してしまうと、これはもう救いようもなく陳腐。高校演劇でしか通用しないオチだろう。

実は、肝腎の伊右衛門には初めから自意識の喪失感がない。
伊右衛門は何も捜してはいないし、求めてもいない。「はぁ、そうスか......」とつぶやきつつその日その日を送っているような平凡な若い男に過ぎない。
第3幕の鏡面の「対決」でも、『すばる』で延々4ページ以上にわたる長ゼリフによって無理矢理テンションを高めた伊右衛門に、お岩が「まだ分からない?俺だよ、俺」と鬘をむしり取り衣装を脱ぎ捨てると、お岩が伊右衛門と同じ金髪、ジーンズ、Tシャツの姿に変ずる。
いわば静かなるブッカエリ。通常ではアッと驚くクライマックス、のはずだ。
だが、伊右衛門はさほど驚かない。劇的な言葉も続かない。
代わりに同装の2人の間でドーデモイイようなユルイ会話が延々と取り交わされて、最後の音楽の洪水まで虚しい時間つなぎをするばかりである。

その上に、

肝腎の蜷川は、一体どうした料簡でこの塩漬けの旧作を掘り起こす気になったのだろうか?
プログラムに掲載された「破壊的な明るさ」と題する蜷川の一文。

「今の社会を冷静に判断すれば、『ぼくらはみんな死んでいる』と歌うほかないのも当然です。でも、そんな"解説"なんて、この破壊的な戯曲の前では無意味です。とことんメチャクチャなんですから!」

でも、この戯曲は果たして「破壊されている」のだろうか?
「破壊されている」と読まれることすら拒もうとする、「なにが起きても、『いいじゃん、別に』」とうそぶく作者の自閉がこの戯曲を織りなしているからには、実は、全体はまったく「破壊されていない」のではないか?

人物がその生をどう生き、死ぬのか。その追求を拒んでただ「流される」伊右衛門
冷徹な観察者でありながら、何を、何のために観察しているかが欠落している与茂七。
「なにが起きても、『いいじゃん、別に』」とバリアーを張って、その中で「しょうがないです」とつぶやく作者。

閉じこもるには立派な殻=世界を、それぞれが持っているではないか。
つまり、この戯曲、この舞台は、もとより「破壊」されてなんかいないのだ。

冒頭の感想、「『劇』が不在。『劇的状況』だけがただただ盛り上がって終わった」とは、そうした意味である。

蜷川は果たして、それを知っていたか、気付かずにいるのか。
知っていて、イケシャアシャアとこの古戯曲を取り上げ、佐藤隆太伊右衛門小出恵介に与茂七、それぞれ役を振ってこのように導いたとするならば。

それこそ、蜷川幸雄という人は、本質的な意味において「破壊的な男」である。

こっちの方がずっと面白いですね、こんなことを書ける評論家がいたのですね。