るりとうわた

日常をつづる

舞台「組曲虐殺」(ネタバレ)

井上ひさしさんの遺作で、見たいと思っていた作品で、最後の戯曲となった音楽評伝劇『組曲虐殺』を観てきました。

井上ひさし、最後の意欲的音楽評伝劇
小林多喜二、二十九年と四ヶ月の生涯

蟻一匹殺せないような内気でやさしい少年が、なぜ三時間にも及ぶ拷問に耐え、
しかも虐殺さえも怖れない青年になりえたのだろうか。


<キャスト&スタッフ>
作:井上ひさし 演出:栗山民也
出演:井上芳雄石原さとみ山本龍二山崎一/神野三鈴/高畑淳子
音楽・演奏:小曽根真


登場人物は、多喜二にその姉チマ、多喜二が小料理屋で酌婦として働いていのを、その借金五百円を払い身請けし、はじめて好きになった女性瀧子と、今一緒に住んでいる元劇団員の女優で活動家のふじ子と、執拗に追い掛けてくる二人の特高刑事の古橋と山本の6人だけです、それにピアノ演奏1人の7人だけです。
再演なだけに皆さんの息もぴったり、程よくまとまっていて無駄がない。
またこのピアノが舞台の上に2階を作った上にあり、スポットライトだけが当たると宙に浮いているように見え、これが舞台進行にも実にいい演奏でした。
音楽担当の小曽根真さん本人なので当然と言えば当然ですが、ピアノの音色がノスタルジックで、この物語の昭和初期を連想させる。

井上ひさしさんの脚本の上手いところで、それぞれのセリフや生い立ちの語りの中に、当時の世相が分かるところがふんだんに織り込まれていきます。
例え特高であれ、その人となりを描いて、人間としてやさしい人物を描き出します。もちろん仕事は「自分たちが白を黒と言えばそうなる」「どこまでも追いかける犬」そのものですが。
警察に追われ、ふじ子と潜伏する中で作品を仕上げ、「戦旗」に発表するが、すぐ禁止となり、さらに地下活動を行う。
それを支援する姉のチマと瀧子。
身売りされる境遇で育った切なさ、また私には指一本触れなかった多喜二なのに、一つのベットでふじ子と寝ていると焼く瀧子を演じる石原さとみさんは上手くはまっていました。


多喜二が読み上げるガリ版刷りに、
「政治家の見通しはいつも杜撰(ずさん)である。軍幹部は威張っている割にはいつも勉強不足である。資本家はいつも銀行口座の残高しか考えていない。補助金はたいていいい加減である。そして、こういった欲の皮を突っ張らせた連中をいつもお守りしているのが、官僚という名の高級役人であり、警察という名の番犬である。」
それは今の時代にも通じているのです。(笑)
また、歌詞の中に
「……絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪いやつが多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないだろうか……いや、いないことはない」
まったくその通りです。

多喜二が捕まるときに、ふじ子がピストルを取り出して特高に向けると、多喜二は「僕の思想に人を殺すという思想はない、人の命を大事にしない思想に価値はない」と制止し、特高にピストルを取り上げられ、引き金を引くと、花が出ました。
緊迫した熱演シーンに、手品のピストルで会場にも笑い声が・・・
決して暗くならず、多喜二もチャップリンの後ろ姿で去って行きます。
あたたかい場面も沢山ありました。
もちろん物語は多喜二が拷問で死んでしまうことを姉のチマと瀧子に 山本が告げるのですが、その山本を探して古橋が追って来て、「山本が巡査の組合を作るといってビラをまいているのを止めさせる」と言って去っていきます。
跡を継ぐ者が現れたようです。(笑)
多喜二のみんなが幸せになれる世の中が来るように、との思いは繋がれていくし、繋いでいかなければと思える舞台でした。



集会を持てば禁止されビラを撒いたと逮捕され、言いたいことが言えない時代があったこと、そうして戦争へと突き進んでいった時代があったこと、決して遠い昔ではありません。
私たちの親の時代でしょうか。
そしてこの戦争で日本が負けていなかったら、どういう時代になっていたのでしょうか?あの当時の権力はどうなっていたのでしょうか?
あの時に負けて、その時は押し付けられた憲法であったかも知れませんが、そのおかげで、今の世の中があり、今の平和で自由な私たちがいる、のだと思います。
ちょうど選挙戦の中で見た舞台は、井上ひさしさんが、日本は二度と同じ過ちを繰り返してはいけない、後戻りさせてはいけないと言っているように思えてなりませんでした。

心して臨みたい選挙です・・・