るりとうわた

日常をつづる

東京大空襲の日・「戦争が終わって僕らは生まれた」

今日は3月10日、風が強く、日が出ているのに、空が黄色っぽい、これは黄砂が来ていますね。
洗濯物の量を少なくして、サンデッキに干しています。
3月10日で、このように季節風が強いとなると、頭をよぎることがあります。
それはこの日が東京大空襲の日だということです。
子供のころから、自分の誕生月の記念日というか記録日を見ていて、8日は国際婦人デーで、私の誕生日に相応しいと思っていましたが、すぐ近い10日に東京大空襲というのがあり、いつも気になっていました。

そして、青春期に良く歌った歌があるのですが、

1.戦争が終わって僕らは生まれた
  戦争を知らずに僕らは育った
  大人になって歩きはじめる
  平和の歌を口ずさみながら
  ※僕らの名前を覚えてほしい
   戦争を知らない子どもたち
(【作詞】北山 修【作曲】杉田二郎

まさに団塊の世代の歌と言われてきました。
私たち世代は「戦争を知らない子どもたち 」です、戦争が終わって生まれました。
そしてその子供たちの子供が、今、子供を育てています。ようするに名前を覚えて欲しいという子供たちはもうじいさんばあさんになっているということです。
こうして圧倒的に戦争を知らない世代が大半だということです。

ちょど昨年7月に、スカイツリーを訪れた際、浅草寺から隅田川を渡ってスカイツリーまで歩いた時に、その川沿いに、1945年3月10日の東京大空襲の慰霊碑がありました。

それを見た時に、この一帯が大空襲に見舞われた地だというのが分かり、一度に距離が縮まった気がしました。
頭の中の知識が、現実に体験した台地と結びついたからです。

アメリカ軍はこの爆撃に先だって江戸時代の度重なる大火や関東大震災(1923年)における被害実態を事前に徹底的に検証し、木造住宅の密集する東京の下町が特に火災被害に遭いやすいことをつきとめていたそうです。
そして、アメリカ軍が東京大空襲の実施を3月10日に選んだ理由は、延焼効果の高い風の強い日と気象予報されたためということです。

この空襲で一夜にして、東京市街地の東半部、実に東京35区の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失し、死亡・行方不明者は10万人以上と言われます。
空襲前の写真です。

空襲後の写真です。

雪が降って白いですよね、焼け野原の黒との対比が怖いです、そこにいた人々はと思うと。

wikipediaによると、

3月10日に日付が変わった直後の0時7分、爆撃が開始された。325機の出撃機のうち279機が第一目標である東京市街地への爆撃に成功し[6]、0時7分に深川地区へ初弾が投下されたのを皮切りに、城東地区にも爆撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)に対する爆撃も開始された。一部では爆撃と並行して機銃掃射も行われた[7]。爆撃による火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速100m以上という竜巻並みの暴風が吹き荒れ、さながら火山の大噴火を彷彿とさせた。午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されたが、想像を絶する大規模な火災は消火作業も満足に行われなかったため10日の夜まで続いた。


季節風にのった炎は逃げ道を防ぎ、多くの人々が川に飛び込み凍死ししたということです、
最大の効果が出るように考えられた3月10日の空襲でした
これは戦争というものが大量の人殺しであることを何よりも端的に物語っています。
それは原爆も同じです、より大きな効果ということはより多くの人々を殺すということなのですから。

目黒区では

今から68年前の昭和20年3月10日、東京大空襲により一夜にして10万人ともいわれる尊い命が失われました。
目黒区では、再び戦禍によって平和を失うことのないよう、世界の恒久平和と区民の幸せを願い、「東京大空襲写真・資料展」を開催します。

として、14日まで写真展が行われています。

自民党の政治になって、原発廃止の方向は変えられ、存続の方向へ向かっていますが、それは単に電力の供給というだけでなく、核兵器が造れるという匂いがぷんぷんとしてこないでもないです・・・

私たちは、忘れないことの他に、何が出来るのかしら・・・
二度と戦争を起こさないためには
平和の歌をくちずさみながら、おとなになって 歩き始める、こととは・・・
二度と同じあやまちをおかさないために