るりとうわた

日常をつづる

岡山城と後楽園

次の日は生憎朝から雨が降り続きました。
やはり先に遠い後楽園へバスで行き、岡山城と戻って駅へ行く方法にしました。
後楽園は金沢の兼六園、水戸の偕楽園と並んで、日本庭園(大名庭園)で、日本三名園のひとつです。
私もこれで3つ見たことになります。
旭川の脇、後楽園の前に、岡山出身の竹久夢二の「宵待草」の歌碑がありました。

まてど暮らせど来ぬひとを
宵待草のやるせなさ
こよひは月も出ぬさうな

正面に見えるのが岡崎城です。

後楽園は岡山藩主・池田綱政が岡山郡代官・津田永忠に命じて造らせたもので、1687年(貞享4年)に着工し14年の歳月をかけ1700年(元禄13年)に完成した。岡山市内を流れる旭川をはさみ、岡山城の対岸の中州に位置する

(左側が延養亭です)
藩主が賓客をもてなした建物・延養亭(えんようてい)を中心とした池泉回遊式の庭園で岡山城や周辺の山を借景としている。江戸時代には延養亭を茶屋屋敷、庭園を後園または御後園と呼んでいた。1871年明治4年)、園内を一般開放するにあたって、これを後楽園と改めた。

唯心山から沢の池を望む
右側に御野島と釣殿が見えます。


曲水といい、後楽園のパンフの表紙に使われています。


旭川を渡る橋の上から撮りました。
天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成した岡山城。西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれています。


32棟の城門があったそうですが、現在あるのはこの不明門と廊下門の2つだけです。


秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っています。関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で城主よりも長い期間の余生を過ごしました。

秀家に代わって城主となった小早川秀秋は、それまでの西側の外堀の外側に城域を拡張して新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったために、「二十日堀」と呼ばれていました。

秀秋の夭折(ようせつ)の後は、幕藩体制の下で岡山城岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。また藩政が安定期に入った17世紀末には、旭川を隔てて北側に藩主が憩と趣を楽しむ庭として広大な「後楽園」が作られました。

やはり見る順序としては城が先で、出来た順として後楽園は後の方が良かったようです。

金の鯱は織田信長安土城以降にみんなが取り入れるようになったそうで、その先陣を切った信長という人はやはり稀有な人だったと岡山でも実感しました。(笑)
岡山城で金の鯱は出土していないが、金箔をはった瓦が見つかったそうで、なら金の鯱もあり得るということになったそうです。


石垣
岡山城は豊臣時代の城が、増改築をされて江戸時代にも引き続いて使用されたため、石垣に構築技法の発達の様相が示されています。築城時の「野面積(のづらづみ)」から江戸時代初頭「打込接(うちこみはぎ)」、その後の「切込接(きりこみはぎ)」と各時期の石積みが観察できます。特に本丸本段の野面積による高石垣は、この時期の全国有数の遺構といえるそうです。