るりとうわた

日常をつづる

基本的人権と個がない(自民党憲法草案と現行憲法の違い)

先日のサッカーの終了後の本田選手のインタビューが話題になっています。
「日本のストロングポイントはチームワークだが、それぞれが自立した選手になって個を高められるかが重要」
本田選手をはじめ海外で活躍している選手たちは、まさにこの個の力を発揮して海外のチームの中で、それぞれに健闘している人達です。
個としての力や活躍がなければ、試合にもつかってもらえないでしょうから。
まさに一点物の輝きということです。
それが世界の中で対等に生き残っていくのには大事なことでしょう。
まさにこれからの日本人にとっても必要な事でしょう。

それが自民党憲法草案では、この”個”が消されているのです。これも後退としか言えません。

今日は基本的人権から。(現憲法の方が親しみがあるので、上に載せ、どうかわるのか、下に自民草案を載せます)
参考ブログ
日本国憲法改悪草案 日本の未来にふさわしくない 憲法改悪阻止を今こそ」
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/Jiminkenpo2012.htm#0

日本国憲法

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる

自民党草案

第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である。

妨げられることが削除では、妨げられることがありうるのでしょうか?
そして将来に渡って、その保証は出来なくなることがあるのでしょうか・・・

これに関連して、憲法97条 丸ごと自民草案で削除された文面があります。それが以下です。

第十章 最高法規
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

この憲法の根幹をなすともいえる、国民の基本的人権が、見事に削除されてしまっています。
こうなると将来的に、基本的人権に制限が加えられることが起こり得るとも取れます・・・

そして、

日本国憲法

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ

自民党草案

(国民の責務)
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない

「公共の福祉」がここで、「公益及び公の秩序」に反してはならないに置き換えられています。
公共の福祉が、「公益及び公の秩序」に全部置き換わります。
この文面が、中日新聞小学館が、自由な報道に規制がかかるのではと案じているところです。
さら「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」と入れることによって、勝手に自由などないと言わんばかりです。
そして、

日本国憲法

第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

② 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

自民党草案

表現の自由
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

真ん中の2が新設です。
「 <-- この条文一つで、デモ、ネットなどあらゆることに網をかけられ、一網打尽にできる。なんと恐ろしか!」と書いてありますが、その通りですね、
まるで戦前状態です。小林多喜二の「蟹工船」が浮かびます。

そして、個人の尊重が消えるのはここです。

日本国憲法

十三条 すべて国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

自民党草案

(人としての尊重等)
十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。

ここでこの方も「<-- 11文字目の個が消えている。原文には傍線まで引いてある。生き物としての人間は尊重するが、個人の存在は認めたくない・・そんな思いを込めてか?」と書いてありますが、まったくそう取れますね。
動物とは違う人として扱うけれど、別に個は尊重しない、つまり最初に書いた本田選手の「個を高める」必要もなく、「公益及び公の秩序に反しない限り」は一応尊重しようという制限つきです。
公共と言えば、あなたも私も、つまり社会と感じれるのですが、自民党はこの「公共の福祉」という言葉が曖昧だから「公益及び公の秩序=社会の一般的秩序」だと解釈しているようですが、どうも公権力の秩序と感じるとることが出来ますし、意味が同じなら別に変える必要がないのではないでしょうか。

こちらのブログに片山さつき氏のツイッターでの文章が載っています。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/ebbfdc012e020fc6a359671bd5fd24ce

「国民は天から権利を付与される、義務は何も果たさなくても良いと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの考えです。
国があなたに何をしてくれるかではなくて、国を維持するためには自分に何が出来るか、を皆で考えるような前文にしました。」

これが自民党の考えを端的に表していると思います。
国が何かをしてくれるのじゃなく、義務を果たしなさいよと言いたいのが、自民党の草案です。
このページの下に書かれています。

しかし、天賦人権説とは、人は生まれながらにして最高の価値を持ち、自由と人権を共有していているという、近代憲法の根幹をなす考え方です。その全面的見直しは、国家観に関わる決定的に重要な問題であり、近代立憲主義憲法の正統な系譜から離脱することになります。たぶん、自民党はそこまで深く考えもせずに、立憲主義憲法をいじってしまっているのでしょう。

 これは、現憲法97条の全面削除もその一環です。日本国憲法の「最高法規」の章の冒頭に、基本的人権の本質に関する97条が置かれている意味について、憲法学者

「その位置を誤ったものと解する見解があるが、そのように解すべきではなく、むしろ、それは、日本国憲法最高法規性の実質的根拠が何より基本的人権の保障の徹底にあることを明確にしようとする趣旨」(「日本国憲法論」佐藤幸治p25)」

そしてこちら中日新聞2005年4月13日朝刊に載った記事として、紹介されています。
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/JaakuAmerika28.htm#JaakuAmerika28

私も以前は「憲法は法律の親分」ぐらいにしか思っていなかった。しかし、法律は、私たちが社会の秩序を乱さないようにするもの
で、憲法は国家に歯止めをかける道具。まったく、向きが逆なんです。憲法を守るのは国家の側、国民は守らせる側。このような考えを立憲主義という。 世界で憲法改正が多く行われているというが、国の根本を変えているところはどこにもない。例えば、フランスは一七八九年のフランス革命の人権宣言がまだ生きている。でも、時代遅れなんて誰も言わない。
日本の憲法で最も大切な価値は、一三条の「すべて国民は、個人として尊重される」というフレーズ。お互いが尊重し合って、自分 らしく生きていくということ。

この考えを国家のレベルに広げると、それぞれの国が同じである必要もない。日本の積極的非暴力平和主義の九条の考え方も、根本は個人の尊重にある。前文と九条は、日本の英知。
この考えを進める改憲ならすばらしい。私たちが幸せになる改憲ならいい。しかし、今の改憲論議は、それを後退させようとしている。
欧米で、政治家の資質は、憲法の価値に忠実かどうかで判断される。だが、日本では、政治家の無能を憲法のせいにして責任逃れをしようとしている。
憲法を変えて突然、国民の生活がすばらしくなるわけはない。憲法は魔法のつえではないのだから…。
今、改憲問題に対する国民の意識は高まっていない。これは、国民にとって、現在の憲法で不都合がないからだ。 不都合なのは、権力を行使する側 なんです。
(「伊藤塾」塾長・伊藤真氏、聞き手=金井、後藤)

これで、結局自民党が、基本的人権と個を削除し、義務を押し付けて、国民を支配しやすいように、憲法を改悪しようとしているのが分かります。
立憲主義の基本さえも間違えています。