るりとうわた

日常をつづる

数字は証言する〜データーで見る太平洋戦争〜


小花のぺチュニアが、夏の盛りに、少なくなった庭の花のなかで、元気に咲いています。
夕顔はヒルガオ科ですが、ペチュニアアサガオ科ですが、いづれもよく似た花の形をしています。
大きさは夕顔の6分のⅠぐらいですが。(笑)

15日で、太平洋戦争から69年が経ち、来年は70年となり、体験者の方達も少なくなっていきます。
TVでは、当時の戦争中のドラマがいくつか放送されています。
”お国のために必死で戦った”姿が、表現されていますが、その当時の”お国”がどんなものだったかを知らないと、正しく捉えきれない、お国=国民の錯覚をおこし、真実が分からなくなります。
国を動かしていた人が、何を目的として、戦争を起こし、中国、南方と、広範囲に出て行き、こういう結末を迎えたのかが分からなくなります。
実体を知らないと、いつのまにか美化されて、同じ過ちを繰り返すことにもなるでしょう。
戦争は自然災害ではありません、起こそうとする人がいて起こるのです。
当時の政府は領土拡大と資源の確保が目的で、戦争を起こし、次第に戦線を拡大し、泥沼へと落ち込んでいくのが分かっていても、辞めることをしませんでした。
そんな戦争を数字から捉えてみようという記事が、毎日新聞に載っています。

数字は証言する〜データーで見る太平洋戦争〜

第一回

230万人はどのように戦死したのか?
日中戦争から太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属の数について、日本政府は230万人(1937〜45年)という数字を公式に採用してきた。だが、彼らがどこで、どのように亡くなったかについては不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。神風特別攻撃隊を題材にした小説、映画が話題になっている今。約4000人とされる航空特攻による戦死者以外の、229万人余はどのような最期を遂げたのか。そんな疑問から、データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

http://mainichi.jp/feature/afterwar70/pacificwar/data1.html
餓死、戦病死が約6割 兵站軽視のツケ
歴史学者藤原彰氏の独自分析

軍人・軍属の戦没者は、直接の戦闘で亡くなった戦死者と、従軍中に病気などで命を落とす戦病死に大きく分けられる。総務省厚生労働省などによると、戦没者230万人を戦死、戦病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していないという。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、そもそも負け戦における記録の難しさなどが影響している。

一方、研究者の間では、日中戦争から太平洋戦争における日本軍の特徴に餓死者の異常な多さが指摘されてきた。歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は自著「餓死した英霊たち」(青木書店)で、厚生省(現厚生労働省)援護局作成の「地域別兵員及び死没者概数表」(1964年)などを基礎データに独自の分析を試みた。

例えば、44年3月にインド北東部の都市インパールの攻略を目標に開始した「インパール作戦」について、参戦したある中隊長が手記に「中隊310人のうち、戦死40人、戦病死96人、患者42人」と記録していたことなどに着目。同作戦が展開されたビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、約78%に当たる約14万5000人を戦病死者ではないかと推定した。(


戦線拡大の果て、戦没者 広大な地域に

当時の日本にとって、戦争の継続に必要な石油、鉄鉱石、ボーキサイト、ゴムなどの戦略物資を確保するため、南方の資源地帯の確保は死活問題だった。南方資源による自活自営体制を確立したうえで、防備を固め反攻に出てくるであろう米軍を迎え撃つことが、当初の戦略だった。

しかし、真珠湾マレー半島などにおける緒戦の戦果が、目をくらませた。日本本土とハワイの中間地点にあるミッドウェー島、オーストラリアに隣接するニューギニア島の占領を目指すなど、日本軍は国力の限界を超えた作戦を多方面で展開。特に地上戦では補給が途絶し、損害を拡大させる主因となった。

厚生省(現厚生労働省)援護局は1964年に国会からの要求を受け、「地域別兵員及び死没者概数表」を発表。日中戦争が始まる37年から太平洋戦争が終わる45年までの軍人や軍属の戦没者(当時の発表では総数が212万1000人)について、地域ごとに内訳を示した。左図の通り、南洋諸島、東南アジア、中国大陸などにわたる広大な地域で、膨大な数の日本の軍人や軍属が命を失ったことが分かる。

ここに太平洋戦争の概略図があります。

この広い地域に、十分な食料もなく、後続支援も無く放ったということです。
しかも軍人・軍属戦没者が230万人もの膨大な数に達した一因には、日本軍は降伏を認められないものとみなしていたことが挙げられます。

国際的には1929年のジュネーブ条約で、捕虜の権利は保障されていた。しかし、「非国民」とされることを恐れた皇軍兵士たちは絶望的な戦況下、最後には玉砕という名の全滅を選択したケースが多かった。
その上に民間人の犠牲者も多く、それは、

「日本本土では米軍の空襲で、東京、広島、長崎など主な都市が焦土と化した。厚生労働省などによると、日中戦争を含めた太平洋戦争での民間人の戦没者数は約80万人。うち国内で亡くなった50万人の半数以上が空襲による犠牲者とみられる。

一方、地上戦が繰り広げられた南洋諸島、旧満州国、沖縄などには多くの日本人が住んでいた。連合国軍の攻撃、補給線途絶による飢餓や病気、敗走のなかでの集団自決などで、民間人にも数多くの犠牲者が出た。」

戦没者230万人」という数字を、私たちはどのように読み解けばいいのだろうか。昭和史の著作が多い「歴史探偵」こと作家の半藤一利さん(84)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】

戦没者230万人の持つ意味
兵士を将棋の駒扱い 愚劣な軍事指導者たち

近代国家の体をなしていなかった日本
半藤一利

戦前の日本は近代国家の体をなしていなかった。「戦没者230万人」という数字はそのことを端的に示していると思います。国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。いつ、どこで、どのように戦没したのか。確実に把握していなければならない。ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。厚生省(当時)は戦域別で戦没者数を算出しましたが、そこまで。死因までは分類できていない。230万人というざっくりとした数字も、私は過小評価ではないかと疑っていますよ。

詳細が分からないということは道義的にはもちろん、軍事的にも非常に問題があります。前線に送り込んだ部隊のうち、戦闘に耐えうる兵士は何人なのか。あるいは戦傷、戦病者は何人いるのか。正確な戦力を測れずして、作戦を立てることはできません。そもそも、前線に送らなければならない武器弾薬、糧食、医薬品などを算出するためにも、絶対に必要です。それができていなかったのではないか。

 兵站(へいたん)を軽視した、あるいは無視したのが日本軍でした。「輜重(しちょう)が兵隊ならば チョウチョ、トンボも鳥のうち」というざれ言があります。輜重とは兵站部門のことです。そもそも、陸軍参謀本部や海軍軍令部のエリート将校にとって、兵卒はしょせん、1銭5厘(当時のはがき代)で集められる存在。作戦時には3日間分のコメ6合など25キロの荷物を背負わせ、前線へとおっぽり出した。食糧がなくなれば、現地調達しろと。降伏はありえないのだから、負け戦になれば玉砕しかありえません。敗残兵の消息など気にもとめなかった。

 これに比べ、米国の手厚さは語るまでもないでしょう。あるエピソードがあります。ブッシュ元大統領(第41代ジョージ・H・W・ブッシュ、第43代大統領の父)は戦時中に小笠原諸島の父島沖で撃墜されました。元大統領は救助されましたが、この時に捕虜になった同僚がいました。戦後、米軍の調査団が父島を訪れ、彼が埋葬された墓地を掘り返したんです。すると、遺骨の首は切断されており、日本軍に処刑されたことが明らかになった。一兵士に対するまで、その死をないがしろにしない。国家としての責任を果たしているんですね。

だから、当時、日本人は1銭5厘(当時のはがき代)の命、と言っていたのですね。
いかに人命が軽く扱われ、鉄砲の弾、または弾除けとして扱われていたかということがわかります。
近代国家の体をなさず、その戦争に国民は駆り出されていったということです。
今、平和憲法の有難味をしみじみと味わえます。
もちろん主権在民の国であることも・・・忘れてはいけません。
それを、以前の体制へ持って行こうという、安倍政権を許してはいけないと思います。