るりとうわた

日常をつづる

アイルランド(その2)


アラン諸島からゴールウェイに戻りました。
写真はゴールウェイのホテル前で撮りました。
エニシダの黄色が綺麗です。バスの中から撮ると、紫外線フィルムが貼ってあるので、どうも色が綺麗に出ません。
このホテルは平屋に見えますが、この奥、海側に向かって、地下階に、部屋がずっと連なり、入り口は2階になっています。
部屋からも大西洋が、見渡せ、あの海の先はアメリカと思うと、遠いところへ来たものだと実感がわきます。
4日目ですが。まだ日本人のツアー客には遭遇せず、添乗員さんは、「これこそ秘境です」と言う言葉に、ある意味そう言えるかもと納得しました。(笑)
この後ゴールウェイの街の散策をし、バブやレストランもあります。

ゴールウェイには大学があり、学生の街とも言われるそうです。
若者がたむろしているスペイン門の近くのシーフード店で、シー&チップスを食べました。

タラのフライに、ポテトフライが山盛りで、8ユーロぐらいだったのを3人で分けて食べました。
この国の主食はジャガイモで、食事に出て来るそのジャガイモの量の多さに驚かされます。
ポークを頼んでも、大量のマッシュポテトの上に乗せてあり、その横には、ジャガイモのから揚げが2個切らずにボンと乗っているという具合です。でもいずれも美味しかったです。

アイルランドの中央から南にかけては山はなく、平坦な台地で、イギリスとよく似ていますが、牧場が続きます。
イングランドによるアイルランドの植民地化は1169年のノルマン人侵攻に始まり、イングランド王がアイルランド島の完全な支配権を手に入れるには1534年から1691年に至るまで多くの遠征をし、1801年実質的にイングランドに併合されます。
イングランドは地主から土地を取り上げ、収穫物も本国へ持って行き、アイルランド人は食糧難となり、1840年以後起きたジャガイモ飢饉が追い打ちをかけ、800万人の人口が、飢饉の死者とアメリカへ移民とで、半分の400万人まで落ち込みます。
ECに加盟しても最近まで世界の最貧国と言われていました。

1594年に波止場を守るために4つの門が建てられ、現在残っているのはこの門だけです。
当時は、スペインの船からワインやブランデーの積み荷を降ろしていたところだそうです。
ここからさらに北上します。
コングという、コリブ湖とマスク湖にはさまれた細長い町に来ました。

コリブ湖の北端に、広大な敷地の美しいアシュフォード城があります。
こちら門に門番がいました、今は来る車の整理をしているそうです。
ここで大雨に合い、ポンチョを着て見学ですが、見学の途中で雨は上がりました。

正面みずうみ側からの眺めです。
サーモンやマス釣りのメッカだそうで、1951年に公開されたジョン・フォード監督の映画「静かなる男」のロケ地としても有名で、その像がありました。

さらに北上すると、詩人イエーツの母方に当たる故郷で、子供時代を過ごし、「Sligo has aiways been my home.(わが心の故郷スライゴー)と書き残した町スライゴーへ来ました。
同じ像でも雰囲気の違う、しゃれた像?があります。

イエーツ像で、胸に詩が刻まれています。イエーツのお墓にも寄りました。
ここまで北の方に来ると、山も見えてきます。

スリーブリーグの絶壁を見に行きましたが、雨雲が濃く、色が綺麗に出ませんでしたが、その高い岸壁に、多くの羊が草を食べ、厳しい自然とのどかな光景のギャップを感じました。

その後北アイルランドに入り、国境線は川でした。そのままバスで通過しました。
そしてロンドンデリーに到着ですが、アイルランドの人々はデリーと言い、決してロンドンはつけません。

6世紀に聖コロンバがこの地に修道院を建てて以来の歴史だそうで。その後17世紀にプロテスタントによる入植が続きます。
その入植が進むと、ロンドンデリーと名を変えてしまいます。
イギリス本国でも宗教改革によりプロテスタントの力が強まります。アイルランドでは圧倒的にカソリック教徒が多いのですから、少数派が多数派を支配する形となり、よその国入り込んで、自分たちの身を守るために造られた城塞ということです。
13度にわたる包囲戦に耐え、城塞の全長は1、6kmで、7門あり、そのままの形で残っています。
その城塞の上を歩くことが出来ます。

こんな広い道がありますが、大砲が備えられ、アイルランド市民の方を見ている?
その分城塞内は穏やかで、聖コロンバ大聖堂があります。

下は一番高いと言われる城門です。

城塞外の光景です。

1972年には、血の日曜日事件が起きます。公民権を要求するカトリックのデモに英国軍が発砲、26人の市民が命を落とした痛ましい事件です。

その犠牲となった少女の絵が見えます。
もちろんメッセージの絵ですが、この辺が発砲された現場だそうです。
その隣にはDERRY HAPPY と書かれています。

英連邦から離脱したのは、1949年です。(北アイルランドは英国領にとどまった。)
城塞のすぐ外にあるギルドホールです。市役所として使われています。

北アイルランドの首都ベルファストへ向かいます。

ヴィクトリア女王統治時代に、造船業で大きく発展します。
その街の中心地となっているシティホールです。
そして、あのタイタニック号はこのベルファストで造られました。

このドッグで製造されたそうです。

タイタニックドッグは姉妹船で、オリンピック号と収容できるように造られ、タイタニック号は出港するまでこのドッグに収容されていたそうです。

このタイタニックで、貧しいアイルランド人がアメリカへ移民しようとしたのは映画のみでなく、当時の実情でした。

2012年には、沈没して100周年ということで、立派なミュージアムタイタニックベルファストが建てられました。
右の変わった大きな建物です。