るりとうわた

日常をつづる

長崎原爆の日


セージの葉に絡みついて咲いている朝顔の花です。
今日は長崎に原爆が投下されて70年です。
先の広島の安倍首相のコメントで落とされていた「非核三原則を堅持」が、今回の長崎ではありましたが、なんかもう信用できないという感じがします。

長崎原爆の日:安保法案痛烈批判…平和への誓い、谷口さん

毎日新聞 2015年08月09日 22時59分(最終更新 08月09日 23時40分)


戦時中の時代に逆戻りしようとしている」−−。被爆者を代表して「平和への誓い」を読んだ谷口稜曄(すみてる)さん(86)は、安倍晋三首相の目の前で、安全保障法制の整備を進める政府を痛烈に批判した。

 16歳で被爆し、奇跡的に一命を取り留めた谷口さんは、戦後、原爆の後遺症と闘いながら、被爆者援護運動の先頭に立ち、国内外で体験を語ってきた。現在も日本原水爆被害者団体協議会の代表委員を務める。

 1974年以来2度目の「誓い」で自らの被爆体験を赤裸々に話した。原爆投下後の惨状や、70年間に亡くなった被爆者の思いに触れ「生きている限り、戦争と原爆被害の実相を世界中に語り続ける」と結んだ。

 今春、核拡散防止条約(NPT)再検討会議開催に合わせて渡米した際は、車椅子だった。帰国後の7月14日に体調を崩し、31日まで入院した。それでも「これまで生きてきた集大成」との思いで大役を引き受けた。被爆70年の節目に命を削って力を振り絞った谷口さんの言葉に、会場から大きな拍手が湧いた。

 式典後、谷口さんは語った。「再び戦争をしない国にするために、国民が力を合わせて、政府を動かさないといけない」【小畑英介】
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勇気をもらいましたね。
全文はこちらです。

平和への誓い全文


 70年前のこの日、この上空に投下されたアメリカの原爆によって、一瞬にして7万余の人々が殺されました。真っ黒く焼け焦げた死体。倒壊した建物の下から助けを求める声。肉はちぎれ、ぶらさがり、腸が露出している人。かぼちゃのように膨れあがった顔。眼(め)が飛び出している人。水を求め浦上川で命絶えた人々の群れ。この浦上の地は、一晩中火の海でした。地獄でした。

 地獄はその後も続きました。火傷(やけど)や怪我(けが)もなかった人々が、肉親を捜して爆心地をさまよった人々が、救援・救護に駆け付けた人々が、突然体中に紫斑が出、血を吐きながら、死んでいきました。

 70年前のこの日、私は16才。郵便配達をしていました。爆心地から1・8キロの住吉町を自転車で走っていた時でした。突然、背後から虹のような光が目に映り、強烈な爆風で吹き飛ばされ道路に叩きつけられました。

 しばらくして起き上がってみると、私の左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていました。背中に手を当てると着ていた物は何もなくヌルヌルと焼けただれた皮膚がべっとり付いてきました。不思議なことに、傷からは一滴の血も出ず、痛みも全く感じませんでした。

 それから2晩山の中で過ごし、3日目の朝やっと救助されました。3年7カ月の病院生活、その内の1年9カ月は背中一面大火傷のため、うつ伏せのままで死の淵をさまよいました。

 そのため私の胸は床擦れで骨まで腐りました。今でも胸は深くえぐり取ったようになり、肋骨(ろっこつ)の間から心臓の動いているのが見えます。肺活量は人の半分近くだと言われています。

 かろうじて生き残った者も、暮らしと健康を破壊され、病気との闘い、国の援護のないまま、12年間放置されました。アメリカのビキニ水爆実験の被害によって高まった原水爆禁止運動によって励まされた私たち被爆者は、1956年に被爆者の組織を立ち上げることができたのです。あの日、死体の山に入らなかった私は、被爆者の運動の中で生きてくることができました。

 戦後日本は再び戦争はしない、武器は持たないと、世界に公約した「憲法」が制定されました。しかし、今集団的自衛権の行使容認を押しつけ、憲法改正を押し進め、戦時中の時代に逆戻りしようとしています。今政府が進めようとしている戦争につながる安保法案は、被爆者を始め平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもので、許すことはできません。

 核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。

 私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。


平成27年8月9日

被爆者代表 谷口稜曄(すみてる)
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こういう核戦争を許すことは出来ません。
二度と無いように、日本は世界の先頭に立って行動しなければいけないと思いました。