るりとうわた

日常をつづる

合掌造り


早朝6時には曇りだったのですが、早くも7時には振り出し雨はすでに土砂降りです。
もう用件は済み、お兄さんのお見舞いも済んだとなると、目的達成で、こんな雨の中、別に出かけなくても良くなってしまいました。
「もう帰ろうか」「帰ってもいいぐらいよね」と言い合いました。
ただ色々と説明を受け、教えて頂いたのに、今度会った時に、雨で行かなかったとは言えないし、レンタカー8時出発の時間を少し遅らせて出ました。
雨の富山城を後ろに、高速道に入り南に向かいます。
岐阜県との県境の山々はまだ白いままです。
世界遺産白川郷・五箇山の合掌造り集落」として登録されていますが、この白川郷岐阜県で、五箇山富山県にあり、いずれも庄川流域にあり、白川郷の方が上流ということです。
先ず白川郷へ行きました。

これが庄川で、駐車場に車を停め、庄川にかかる吊り橋を渡って白川郷へ入ります。
この山間部にあって、ツアーの大きなバスが何台も並び、外人観光客も大勢いました。

水墨画のような景観です。

白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。独特の景観をなす集落が評価され、1976年重要伝統的建造物群保存地区として選定、1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に白川郷・五箇山の合掌造り集落として、ユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。白川郷の萩町地区は、今も実生活の場として使われているところに価値があり、それが他地域の合掌民家集落と違うところである

橋を挟んだ地域が荻町です。

町の印象としては、日本なのに家が大きいということ、敷地が広く、柵や塀がないということが特徴的です。
山の奥地にあり、大家族制であるということです。
江戸時代の白川郷は金森藩領と浄土真宗照蓮寺領となり、前者はのちに天領となったそうです。

建物は南北に面して建てられおり、夏涼しく、冬は保温されるようになっています。
家の中にある囲炉裏は、料理はもちろんですが、煙が屋根裏をいぶすことで防虫や防腐にも役立っているのです!
また、通常の家とは違って、屋根裏(小屋内)を積極的に作業場として利用し、蚕の飼育場として使用していました。

手前の茅葺はまだ張り替えた後か、新しいです、現在も居住されている町なので、今の住宅と茅葺とが混在しています。

状態の良い合掌造り住宅59棟が残り、明善寺庫裏の様式も合掌造りに分類されるため、これを含む場合は60棟となります。

これは大きな家ですね、一番大きな家だと思います。


これから下は富山県になります。
五箇山(相倉地区、菅沼地区)は加賀藩領となり、塩硝生産が保護されていた。塩硝は火薬の原料となる硝酸カリウムで、五箇山では雑草と蚕の糞を利用して抽出する培養法が行われていた。五箇山流刑地にもなっていた陸の孤島である分、原料調達の長所のほかに秘伝の漏洩を防ぐという意味でも適しており、稲作に不向きな土地柄で養蚕とともに発達した家内工業の一つであった。

まずは菅沼地区で、9棟の合掌造り家屋が残る集落で、小規模です。
庄川のそばにあります。

白川郷と違うのは、入り口の位置です、白川郷は茅葺の軒先のある方が入り口でしたが、こちらの菅沼では切妻の切ったところに入り口があります。

こじんまりとした趣がある村でした。

一番良かったのは、次の中規模集落の相倉地区でした。
どこも入場料は無く、駐車場料金がそれに当たる様で、白川郷は千円、他は5百円でした。

いずれも豪雪地帯で、もっとも北にある相倉は、今でもこれだけ雪が残り、寒かったです。
20棟の合掌造り家屋が残る集落です。
日本の原風景を見るようで、タイムスリップしたような気分になりました。

私はここが一番雰囲気があって好きでした、外国人観光客にもこちらの方をお勧めしたいです。
ただ、観光客が増えると、そのままの維持が難しくなり、どうしても現代的な物が入り込みます。
白川郷のような大きな観光バスはまだ五箇山の方へは来ていないようです。
その分自然の良さが残されています。
富山側も頑張って!と、応援したいですが、訪問者が少ないから、日本の原風景が残っているとも言えますね。

朝出掛ける時は、行くのはもういいかな?なんて考えていましたが、今は来て見て良かったです。
富山駅から白川郷までは1時間半ぐらいです。その後菅沼、相倉はそこから30分ぐらいでした。
日本の世界遺産探訪となりました。
一日中土砂降りの雨で、背中も濡れてしまい、エアコンを入れて、車の中で乾かしながら、移動しました。