比叡山(延暦寺東塔ー西塔ー横川ー坂本日吉大社)
(比叡山から見た琵琶湖で、紀貫之も愛した景観です)
上の写真は比叡山から見た琵琶湖ですが、今日は晴れて、唐崎のホテルのテラスで撮った琵琶湖の写真は左です。
ここへ来て、まずは驚いたのは伊吹山が真っ白なこと、そして比良山系の頂が白波が立ったように連続して雪を被っていることでした。
伊吹山より北にある山並みが白いのはもう北陸に近い山だからというのはわかるのですが、この春先に来てまで関西でもこんなに寒いというのは異常気象ですね。
まずは比叡山を目ざしケーブルカーに乗るので坂本駅に来ました。
想像していた比叡山はもっと高い山だと思ったのですが、これは来てみないと解からないものですね、神奈川県の大山や丹沢の山よりも低いことがわかりました。
ちなみに比叡山は848mで、大山は1252mです。
写真は坂本駅(大正14年に建設された当時のモダンな洋風建築)とその立て看板です。
それでも昭和2年開業ケーブルカーの長さは日本最長距離約2kmで、麓の坂本駅も山上の延暦寺駅も国の登録有形文化財に指定されています。
車両は大正ロマン漂う雰囲気だそうです。
ケーブルカーで頂上のひとつ手前にもたてやま駅があります。
ここから見た琵琶湖の景色が素晴らしく、平安時代の歌人で土佐日記の作者紀貫之はこの景色を愛し、ここに埋めてくれと言い残し、この地に埋葬されたそうです。
(一番上の写真です)
比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山。平成6年に世界文化遺産に登録されています。奈良時代末期、19歳の最澄(767-822)が、比叡山に登り草庵を結んだのが始まりです。最澄が中国に留学して天台宗を開立してからは、弘法大師の開いた高野山金剛峰寺とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の地位に君臨する。この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(814-891)、円仁(794-864)、慈円(1155-1225)、源信(942-1017)、法然(1133-1212)、親鷲(1173-1262)、一遍(1239-89)、道元(1200-53)、日蓮(1222-82)などの傑僧を輩出しています。全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。この時代に門下の対立が激しくなり、分立した三井寺(園城寺)の寺門に対して、山門と呼ばれています。
杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は、天台宗修行道場としての威厳に満ちみちた雰囲気が漂い、訪れる者の心を引き締めます。延暦寺は比叡山の山上山下に大別されており、山上には、根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川の3地区に分かれています。一方、山下になる坂本には、延暦寺の鎮守社だった日吉大社や本坊だった滋賀院などがあります。
比叡山は延暦寺という一筒の建造物があるわけではなく、500ヘクタールの境内に大きく三塔(東塔、西塔、横川)の地域に分けられ、これらを総称して比叡山延暦寺といい、それぞれ趣が異なるということです。
看板の図の下の町が坂本で山の中央が東塔で、右が西塔、看板から右端に切れているのが横川です。(左は無動寺谷と書かれています)
山は高くなくとも奥は深いという感じで、車で回るのは訳ありませんが、歩いてというのは大変で、上手くシャトルバスが利用できるといいのですが、まずは東塔まで続く上り道をがんばります。
(根本中堂)
東塔には総本堂国宝根本中堂があり、よく写真で見る景色が広がります。
堂内には、今も1200年間絶やされることなく燃えつづけている、「不滅の法灯」があるそうです。
(上から見た根本中堂)
あまりに大きくて写真に入りきらないので、正面の文殊堂の階段を上り写真を撮りました。
(文殊堂)
それから文殊堂から、東塔へ行き、阿弥陀堂をみました。
(東塔と阿弥陀堂)
この下り道、老齢のご婦人に声をかけられ「教えて欲しいのですが、織田信長が殺されたのはここですか?」と尋ねられたので、夫と二人で「信長が焼き討ちをしたのがこの延暦寺で、信長が明智光秀に殺されたのは本能寺です」と答えると、「そうだそうだ、どうも記憶が・・曖昧になってきて」と、解決したようで良かったです。(笑)何でも疑問に感じたら、誰かに聞くか調べるかして確認するのが一番ですね、間違えて記憶してしまうと訂正するのが大変です。
昨年の大河ドラマをしっかり見ていれば、よくわかったでしょうが前半でリタイアしてしまいました、何か嘘っぽいところがあると、チャンネル権の争いにも覇気が無くなります。(笑)
平清盛も3週も飛んでいますが今度は見なくては〜。(笑)
東塔を後にして西塔に向かいます。
杉木立の中、マイカーが多いのでしょう、行き交う人に会うこともなく、森閑とした中、ハードな道を下ります。(写真)
その道中に荘厳とした住まいがあり、浄土院とあります。
(門から見た浄土院)
さらにその先を行くと、弁慶が担いだというにない堂があります、双子のように左右に同じ堂があり、常行堂と法華堂の同じ形の建物ががあります。
(にない堂)
弁慶がこの渡り廊下をてんびんぼうにして、このお堂を担いだという伝説から「弁慶のにない堂」と呼ばれているそうです。
その先を行くと眼下に古い本堂が見えます。
西塔の中心にある山上で最も古いとされる堂で、それが天台建築様式の代表とされる釈迦堂です。
(釈迦堂)
歴史を感じる佇まいでした。
ここから比叡山の一番北にある横川までは歩いても1時間以上の距離があり、来たシャトルバスに乗ったのですが、1時間に1本ということで、横川に着いたそのバスで延暦寺駅まで戻ることにしました。
眺めたつもりの横川には朱色の鮮やかな舞台づくりの横川中堂等があるということです。
道中の景色が素晴らしく琵琶湖対岸の山々が雪で白く輝き、青い琵琶湖と対照をなす色取りでした。
延暦寺駅からケーブルカーでまた紀貫之の愛した景観を眺めながら坂本駅に下り、石積みのある門前町と日吉大社の見学です。
坂本は比叡山延暦寺の門前町として栄え、約50ヵ寺の里坊(山上での修行を終えた老僧に与えられた坊舎)があり、自然石を用いたり、借景などの趣向を凝らした庭園があり、サツキ、紅葉、苔などが美しい色合いを見せています。
この一帯は平成9年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。
坂本は穴大衆(あのうしゅう)と呼ばれる城の石垣などを作った石工集団の出身地であり、里坊の石垣は自然石を巧みに積み上げた堅固なもので、加工しない自然のままの石面は自然の美しさを保っていて、白壁の塀と調和してしっとりと落ち着いた雰囲気を漂わせています。
(石積みの門前町)
湖岸側の下阪本には、戦国時代に、宣教師フロイスが安土城に次ぐ天下の名城と紹介した明智光秀の坂本城があり、城下町としても栄えたようです。
比叡山でのご婦人のお尋ねではありませんが、延暦寺を焼き討ちにした信長が、この地の城主明智光秀に殺されるとは皮肉な運命ということになります。
その城は豊臣秀吉の家臣堀秀政に攻められ、明智秀満が城に火を放って討ち死にし、今は石碑が残るばかりということです。
(日吉大社の東本宮)
日吉大社は古事記上巻に「日枝の山(今の比叡山)に坐す大山咋の大神」と記されていて、神代に創建されたことがうかがえる神社で、日本では最も古い神社だそうです。
日吉大社は東本宮、西本宮共に国宝で、その他社殿17棟と神輿7基と石橋が重要文化財で、広大な敷地にそれらがあるということです。
老樹が茂り、神代の昔から〜という言葉に、つい頷いてしまうほどの静寂な自然に囲まれています。
色々と歴史を身近に感じさせてくれる2日間の散策でした。
ちなみに京歩きは1万5705歩、比叡山は1万5698歩と計ったように似通った歩数にびっくりしました。(笑)
桜に縁はありませんでしたが、歩いた分、食事が美味しく花より団子の旅となりました。(笑)