るりとうわた

日常をつづる

帝劇コンサートまとめ

本当に雨の日が多いですね、おかげで今日は見舞いに出かけることなく家でゆっくり出来ています。

そんな時に帝劇コンのことを書いておかなくては忘れそうです。

主人からは、私や娘に(仕事中)携帯から電話が掛かります、口でしゃべれば早く済むので、でもすぐに切って、ラインにと切り替えてもらいます。主人の大声では病院では迷惑ですから・・・

ようやく少し落ち着いたみたいで、ただ救急車で入ったせいか、本人談だと、よく覚えていないらしい?眼鏡はない、財布はない、診察券やお薬手帳はあるけど、よく覚えていないらしい・・・

そりゃそうだ、パジャマ姿で入っただけで、主人は何も持たず、次の日入院に必要なものは私が届けた、靴も入れて届けましたから、きちんと筋が通り、昨日この日記に書いた感謝すべき人たちのことを伝えなくてはなりません。

その人々に生かされていることをしっかりと自覚してほしいと思います。

 

レポは「THEATER」さんよりお借します。(曲名やら間違いたくないので)

間に、写真と感想を少し…m(__)m

開演前は写真を撮れたので、29日の日は右側から舞台を見ます。

30日の二日目は左側から見ます、この方が前です、両側から見れてよかったです。

堂本光一&井上芳雄ら豪華スターが出演。『New HISTORY COMING ARENA LIVE -The Imperial Theatre Symphony-』各会場大盛況で成功し、ついに最終地小倉・北九州アリーナへ。
2026.08.27

THEATER
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新・帝劇が開場するまでのこの時間に、過去・現在・未来の帝劇に想いを馳せる時間となるような、最高のエンタテイメントをお届けする機会として、アリーナツアー『New HISTORY COMING ARENA LIVE -The Imperial Theatre Symphony-』が全国のアリーナで大盛況を見せている。

記念すべきこのコンサートのホストは、共に2000年に帝国劇場に初めて立ち、数々の主演舞台で帝劇における21世紀のラインナップを心強く導いてきた堂本光一、井上芳雄が務めている。東京ガーデンシアターでの初日は、二人のMCが大いに盛り上がり、2時間半の上演予定を30分以上超過するくらい、和やかなムードで進行した。

堂本光一は作・構成・演出・主演作『Endless SHOCK』をミュージカルスターと競演してその世界観を届けることを大いに喜び、『エリザベート』や『レ・ミゼラブル』(札幌のみ)、『キャバレー』などのミュージカル楽曲にキャリアで初めて真正面から取り組み、芝居心たっぷりにパフォーマンスし、俳優としての新たな一面を披露した。


井上芳雄は、『ウェディング・シンガー』でキャリアで初めて、アリーナを周回するトロッコから歌い、その喜びを表現し、『エリザベート』ではデビューのルドルフと近年の本役トートを披露、『Endless SHOCK』盟友堂本光一を心強く支え、『ルドルフ -ザ・ラスト・キス-』の「明日への階段」は「帝コン」クライマックスを盛り上げた。堂本光一と井上芳雄が、新帝劇を思い浮かべて歌う『チャーリーとチョコレート工場』の「ピュア・イマジネーション」はこのコンサートの大興奮を、帝劇の輝く未来へと繋げる名演出となった。


レギュラーメンバーは、エンタテイメントの未来を照らすミュージカル界最高の俳優が揃った。

『レ・ミゼラブル』日本初演エポニーヌ役で世界ベストキャストにも選ばれた島田歌穂が「オン・マイ・オウン」を歌唱。アリーナ会場を1987年の『レ・ミゼラブル』初演の瞬間に一変させる奇跡のパフォーマンスを届けている。札幌公演では、堂本光一がマリウスに扮し、島田歌穂エポニーヌとのデュエットで「恵みの雨」を歌い、エポニーヌとマリウスの心の通い合いにアリーナ中が胸を熱くした。


『Beautiful』『ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル』の平原綾香。 「Jupiter」でアリーナの心を掴み、『エリザベート』コーナーで披露される「私だけに」は、その天恵といえる自由自在な歌唱で、エリザベートの人生を1曲のなかで見事に演じている。


『ミス・サイゴン』キム役・日英上演作『SIX』のソニン。札幌でミュージカル「SIX」の4人だけの「Ex-Wives」を日本版オリジナルキャストとして心強くリード、迫力のパフォーマンスを届けた。『エリザベート』「愛のテーマ」の井上トートとの競演も。


『Endless SHOCK』のニューヨークでの通りすがりのシンガーよろしく「Dancing On Broadway」を堂本光一と一緒に平原綾香とソニンが弾けるように歌うパフォーマンスは、この「帝コン」ならではの煌めく瞬間といえるだろう。


『レ・ミゼラブル』ジャン・バルジャン役・『ジキル&ハイド』の佐藤隆紀(LE VELVETS)。「’O sole mio」の晴れやかなロングトーンでアリーナを惹きつけ、『エリザベート』本役で演じるフランツ・ヨーゼフ役、『レ・ミゼラブル』本役のジャン・バルジャン役「彼を帰して」、『SHOCK』での陽気さ! 自在のふり幅で観客を魅了した。


『ダンス オブ ヴァンパイア』『クワイエットルームにようこそThe Musical』の桜井玲香。ルーツメドレー・乃木坂46「命は美しい」から幕開け、『Endless SHOCK』のヒロイン・リカ役、『ダンス オブ ヴァンパイア』 本役サラ役など、様々なヒロインで魅了、桜井玲香のパフォーマンス名場面集を走馬灯のようにご覧いただいた。


『ロミオ&ジュリエット』『1789-バスティーユの恋人たち-』の岡宮来夢。ルーツメドレー「キミと見上げたあの日の空に」(ミュージカル『刀剣乱舞』より)が凛々しく、『1789 -バスティーユの恋人たち-』『エリザベート』『Endless SHOCK』・・・技術力と持ち前の瑞々しさで、先輩スターたちのファンにもその若き才能を見せつけた。


そして、劇団四季での名作や、『エリザベート』『ラブ・ネバー・ダイ』の石丸幹二。(東京、神戸のみ) 劇団四季時代の代表作『オペラ座の怪人』ラウル役は、時が止まったような美しさでお届けし、神戸公演限定にて「All I Ask Of You」をソニンと共に歌います。東京限定で佐藤隆紀が歌った『ジキル&ハイド』の「対決」も「帝コン」ならではの試みだった。

東京ガーデンシアターでは市村正親、京本大我(8月9日公演のみ)、東京国際フォーラム ホールAでは伊礼彼方、浦井健治(8月14日夜公演のみ)、札幌 北海きたえーるでは氷川きよし、今週28日からは神戸 GLION ARENA KOBEは城田優がスペシャル・ゲストとして参加。

それぞれのスターがキャリアを代表する名曲を届け、各会場のデュエットソングを披露するなど会場ごとの演出も盛り込まれ大成功のうちに最終地・小倉へと向かう。

とにかく楽しいコンサートでした。何が楽しいかと言えば、普通舞台から切り離して歌われることのない挿入歌がそれだけで聞けること、役でない方も歌えること、つまり自由なんです。主役が歌ったかと思えば、次は他所の人がうたい、配役を変える、わき役もダンサー役もこなす。なんでもありなんです。

要するに、舞台中はその役でなければならないのを、役を演じる人としてその姿がみえるのです。で余興か?というとこれはプロです、たちまちにして真剣勝負で、表現力たっぷりに、役にはまります。実に面白い!

これは、井上ひさし氏作の「天保12年のシェイクスピア」を見たときに感じた、面白さに、似た面白さがあると思いました。ごちゃまぜの~、言い方は悪いですが、それでも面白いという・・・

「天保12年のシェイクスピア」の2002年の舞台を観ました、

話が飛んだところで、ひとまとめとします。

ユーハイムは神戸が発祥の地なんですよね、本店がGアリーナにあり、バス待ち時間に娘と入りました。

900いくらのほぼ千円のケーキでしたが、値段に負けない美味しさでした。

 

感謝の気持ちを伝えたい

早くも9月ですね、季節も進みますが、庭の花も新しく咲き出します。これはシュウメイギクで秋を知らせる花と夏のうちから咲き出します。


秋明菊は毎年もっと早く咲くのですが、今年は遅いです。

29日から31日まで、娘と大阪へ行き、実家の姉にも会い、義兄にも会い楽しい時間をすごしてきました 。
帝劇コンサートの神戸公演にも参加してきました。明日明後日と小倉で千秋楽を迎えますがお天気が気になるところです。
書きたいことがいっぱいあるのに、いろんなことがあり過ぎて書けないでいます。

今日は今一番感謝していて、その気持ちを伝えたくて、そのお礼が言いたいのですが、そのことを書きたいと思います。
9月1日のことです。
私は出かけた二人分の洗濯と、留守番の洗濯ものと山のような量をこなしておりました。主人は定期の胃カメラの検査の日だと病院へ出かけました。
夕方5時過ぎて帰ってきた主人と食事を済ませ、胃潰瘍がなかなか治らず再発を繰り返しています…

この日は食後7時ごろ、胸やけがする、胃が痛いと言い出し吐きました。それが便器一面真っ赤でした。食事をしたから量は多いです、でも時間がたてばもっと濃い赤色になるはずです。
するとまた二回目に吐きました。何も物はないのに、鮮血です。
動脈が切れているかな?と思いました。
私は「救急車を呼ぶわよ!」と言いました。もう病院のやっている時間ではなく、素人では手に負えませんから。
主人も、「写真を撮っておけ!」と言います。私は携帯と、電話機を持ってうろうろです。
119番はすぐでました。
名前と住所を確認され、すぐに「お隣は○○さんですね?」と聞かれ「そうです」「どうしました?」と聞かれ、その時ちょうど3回目に吐いていたので,「三回とも赤い血を吐いています」と言いました。
「顔色はどうですか?白いとか?」と聞かれ、私は緊張しているみたいで手が震えてる。「白いというよりか、青いように見えますと」と言いました。「わかりました。今そちらへ行きますからね」「今出ます」と、そういえばあちらは絶えず動きながらの応答に聞こえました。

主人はズボンを履こうとします、わたしが「なぜそんなものを」と言い主人はいつも下着姿がベストですが、私が渡したパジャマに着替えます。そして声で、お薬手帳に、診察券にマイナ、と言いながら、私は自分の持病の薬をもちます。何時までかかるかわかりませんから。

ピーポーの音は私にははっきり聞こえなかったですが、その音が家の前で止まるのはわかりました。
「すみません」と自分でドアを開けて忍者のように入って来られたのが救急隊員の方々でした。その時ベッドに主人はいなく、またトイレです。
ちゃんとこっち向きに座っているので、したくなったのか??わかりませんが、「今トイレにいます」と私が言いました。
すると「下血ですか?」と言われ、それもありうるか?すると上下で血だらけでは?と気になりました。

担架でも棒はない、布の部分だけをもって家に入られたみたい、「ご主人は私の方に肩にもたれかかってください。、そのまま移せます」と狭いトイレ前のローカで3~4人の大人たちでいっぱいです。
外に出ると、主人の車の置き方が悪く、通路が狭くなっていました。
お隣の奥さんと、民生委員の方が話していました、一礼して通りましたが、何か自治会の手順でもあったかしら?はじめてのことで~

別れ際に親しく手を振る分けにもいかず、私はまっすぐ前をみました。
隊員の方は皆若い方たちです。
私は朝から主人が病院へ行っていたことを話し、胃カメラの検査をしていたことを話しました、。
そうするとやはりその総合病院へ行くことなりました。
途中吐血の写真も見てもらいまいした。これは有効だよ、とおっしゃいました。
病院についたところ、隊員の方が10分で着いたとおっしゃいました。
電話に出てから10分しかかかっていないのです。すごいです。
でも私には長く感じました。


時間は八時過ぎだと思います。私は娘に連絡します。出社の日だったので10時ぐらいに着きました。
先生が動脈が切れている、ただどの動脈か分からないから血の海の中で止血場所を探しているとおっしゃいました。
それで輸血をします、と

先生も若い方で30後半か、40代の前半の感じがします。夜中の10時過ぎに胃カメラからの手術です、終わったのは0時半ごろでタクシーで家についたのは1時でした。
この先生にはよく頑張って頂きました、本日の手術で切れている動脈を探し当て止血していただきました。
手術は予約が入っているので、手術と手術の間に胃カメラを使って手術をしてもらいます。
昨日お会いした時はセブンイレブンでお弁当とお茶を買って、慌ただしくお昼する感じがしましたが、もっと沢山のものをゆっくりと時間をかけていただいてほしいとも感じました。

それにどこの署から来た救急車の隊員の方たちかと気になります、親切にして頂いてお礼を申し上げたでしょうか?風のように来て、風のように去っていった・・・、適格な対応に、無駄のない動き、素晴らしい組織だと感じました。
救急者の隊員さんとこの先生に、感謝の気持ちを伝えたいです、本当にありがとうございます。

紋白蝶とミニトマトの怪?

無農薬で野菜を育てるのは確かに難しいです。

葉には穴が開き、虫が食べに来るから、それを餌にする蝶や鳥が来てもっと大きな穴が開く、カナブンも来るし,葉を巻いてその中に住もうとする虫も来る。

まあ、それだけ無農薬の野菜は虫たちにも美味しいということでしょう。

春でもないのに、わが家の菜園の近くには、紋白蝶が乱舞しています。

こんな猛暑にも蝶はいるのですね。つがいで2匹で飛んでいるのが多いです。時には6匹ぐらいが昼間から戯れて、ひらひらと飛んでいます。

携帯カメラで狙いを定めてもなかなかうまく写真にとることはできませんが、この一枚に紋白蝶が写っています。オクラの花の下です。蜜をねらってきたのでしょうか?

 

ミニトマトは花がよく咲いています。ただまだ赤くして収穫してません。

私が水まきしながら、お味拝見~とつまみ食いをして、確かにトマト味!と確認したきり収穫はありません。一度3個揃って明日は収穫しようと寝たら、翌朝にはなくなていました。どこも荒らされておらず、3玉だけが消えていました。??誰かいるのでしょうか

?がくも残ったまま、手で外さないと無理した力がどこかに加わりますよね。

干し柿に歯形がついていたときは、獣だと思いました。近所の空き家があれていて、アライグマが住んでいたり、ハクビシンが出ると聞かされていたのですが、その家も売れて、今はきれいに整地され新築の家が建ち、不法ものの住み家はなくなりました。野ネズミかな?と思いましたが、ミニトマトも食べるのでしょうか❓あんなにうまく実だけはずせるのかしら?野ネズミとのミニトマトの共有は嫌ですね、犯人は誰?何?でしょうか?謎です・・・

きゅうり祭り

このところきゅうりが大豊作です。

ご近所にも3本、2本と差し上げています。

もう収穫数も38本を超えました、大豊作です。

中には、小さい方が普通のサイズです、巨大化したきゅうりです。気が付かなかったみたいです。

きゅうり3点、大根ときゅうりのサラダかつお節乗せ、浅漬け,キュウリもみとかぶの浅漬け、どれも漬物風です。

巨大きゅうりは皮をむいて、乱切りにしてこれお菓子のようにつまんで食べるのが瑞々しくて一番美味しいように感じます。

最近カットスイカやパイナップルがスーパーに売っています、主人に薦めると一つつまんで、「甘くないから、駄目だ」と言います、甘くないから水分補給にはいいのに~と思いました。フルーツ替わりは無理みたいかな??

きゅうりが私の箱庭を覆っています、独り占め感があります、ブロッコリーは葉に穴があきレース模様になり、虫か鳥かに食べられて、弱ってしまいました。




 

帝劇コンサートへ行くまで(つづき)

東京は文化の一極集中化で、沢山の演劇が観放題です。生身の人間が目の前で演じてくれるのですから、時間とお金に余裕があったらこんな贅沢はないでしょう。

演劇鑑賞を再開してからは見る順番を演出家によって決めました。しょせん舞台は演出家のものですから・・・
井上ひさしさんが好きなので一番に、観劇した後にも何か温かいものを感じられて好きでした。
それから好きな時とそうでない時があるのですが、蜷川幸雄さんは個性的で、美意識が高く、セットにもこだわりがあって面白いから2番。巨匠を捕まえてこの言いっぷり、でもいいのです、お客様は神様ですから、このかみは紙と書いて、お札のことでしょう。(笑)、それから若い野田秀樹さんの劇団の芝居は頭を使ったわね~なるほどと感心する時もあり4番かな、毎度では疲れますから、3番が誰だったかな?ついこの間のことのようだけど忘れてしまいました。
このように優先順位を決めてチケットを取ります、すると観たい舞台を見逃さなくて済みますから、これに帝劇の若い二人が加わります、見逃せない!(笑)井上芳雄さんと堂本光一さんです。
2000年に、同じ年で帝劇デビューで、お互いに縁を意識し交流を持ってきたらしい、話してみると考え方も似ているし、一緒にいて楽な奴だったとか…、もうこちらの心配を他所にしっかり仲良しさんでした。
光一さんからは元気と勇気をもらい、艶やかにして精悍と相反するものがひとつになり、子供時代のあの宝塚で味わった感動にも似て、ただただ見ているのが華やかで感動的でした。芳雄さんは歌声がよい、癒されましたあの声に、体の中を突き抜けていく気持ちよさがあり、これはまた楽しい!

帝劇は千代田線で代々木上原で乗換えると直通の一本で通えるので便利でした、その電車の前方に乗れば帝劇で、後方に乗れば日生劇場という具合で便利でした。
演目は東急文化村・シアターコクーンも多く、渋谷へもよく通いました。パルコもありますね、ここは一人芝居がよくありました。
一番遠いのはやはり埼玉の彩の国シエークスピア劇場(蜷川幸雄主宰)ですね。
このころはチケットを交換したりで、友人ができ、一緒に通いました。
後は池袋のサンシャインシテイで小劇団とか、東京芸術劇場もありますが、好きな劇場の部類です、青山劇場もいいですが、まだ解体されたという話は聞きませんが、今どうなっているのでしょうか?
あっ3位を思い出しました、いのうえひでのりの劇団新感線でした、関西への懐かしさから観劇しました。

ちょうど舞台も過渡期に来ている時期で、舞台転換はSHOCKが一番早く、その次が劇団新感線でした。これまでは黒幕を引いてその前で出演者が芝居をし、裏ではとんとんカンカンと舞台装置の転換をするというのが今まででした、その間客席では咳ばらいをしたり、態勢を変えたり、小休止ですが、新しい舞台では、背裏には次の背景が仕込んであったりと、一瞬にして舞台転換がなされ、客席もそのまま集中が続き、ぐいぐいと話は進みます。その上にSHOCKは常に満席で、臨時にパイプ椅子で増設されることもありました。
劇団新幹線の舞台を観劇していたら、水槽の話になって、最近は「ウナギのコウイチが暴れて電気がビービービーと来て、電気ウナギのコウイチだった」と突然のアドリブでした。やはり演劇界では脅威だったのでしょう、毎回客席を埋めるのは大変なことだと思われますから・・・しかも即日全席完売を25年間です、すごいです。
いつもは古田新太さんのアドリブがさく裂ですが、この日は演出家のいのうえひでのりさんその人のアドリブだったのではないでしょうか、そして2000年SHOCK千秋楽の日には帝劇の会長、松岡功氏がSHOCKを向こう10年間やってもらいます!とコメントが出ました。この方テニスの松岡修造氏のお父さんです。
芳雄さんは2000年国立音楽大学の学生のまま帝劇に出演、学生のまま帝劇と契約を結んだといいます。その後の仕事も順調で、モーツアルトのダブル主演を勝ち取ります。ただ中川晃教さんも嵌り役だったせいで、比較され苦しかったと当時のことを語りますが、私も両方の舞台を観ましたが、当時映画でMA(アマデウス・モーツアルト)というモーツアルトとサリエリを描いた映画が大ヒットし、その主人公が小柄で、雰囲気が中川さんに似ているのです。その影響もあったのではと思います。
私は大らかな彼の歌声だけでもすでにモーツアルトだと、好みでしたから充分演じられていると満足でした。
このころから帝劇は主役を二人、副主役も二人置いたりして、ファン同士を競わせたり、チケット取りをやはり競わせたり、と工夫というか手を変え品を変えて、売り上げを伸ばしていたのでしょう。
順調に舞台数も進み、彼は優等生の生徒会長タイプですから何事にも積極的です。帰りには握手とサインに応えフアンは長い列を作り、それを名付けてプリンスロードと呼ばれました。また当時の若い仲間を集めて、山崎育三郎さんと、浦井健司さんらと、STARSというグループも作っていました、
彼のチャレンジ精神は休むことなく続き、テレビに出たい、司会もしてみたい、舞台にも立ちたい、井上ひさしさんには、同じ名前ですとアピールし、それが、『蟹工船』で小林多喜二を描いたもので、しかも井上氏の遺作になりました。同じく蜷川幸雄さんにもアピールします。このころ蜷川さんは有名どころの成長盛りの若者を、使いだけ使い放題の立場にいたと思います。小栗旬、松坂桃季や松本潤や・・・
芳雄さんは自分で名乗り出て、「冬眠するクマに添い寝してごらん」の出演を獲得します。ただ上田竜也さんが主人公で出番も多かったです。その芝居の中での出来事ですが、客席の中の花道を芳雄さんが歩いていると、突然ズボンがずり落ちてパンツスタイルになります。客席もびっくりしました。声にならない声で、あっという感じでした.笑い声も上がりません。
どういう意味があったのでしょうか??ぎこちなくズボンを上げます。
すると一緒に来た友人が、膝の上に置いていたハンドバックをとんと立てました。
そして、こう言いました。「蜷川さんあざとい!」とすでに怒こっていました!!私はこの後立ちあがって、帰るのだと思いました。私は観て帰るからと伝えなくては、と思うと、また一言、「あざと過ぎ!」とつぶやいて、ぺたんとバッグを膝の上に寝かせました。
あ、見て帰るんだ。とほっとしました。(笑)
でも最後まで見てもよくわからん舞台でした。吉田日出男の戯曲を制作発表で、「やるんじゃなかった」と後悔を述べたとか、吉田さんは「蜷川さんと対決した、と小説家としてこの演出家と対決した、勝敗はまだわからない。」と言ったそうです。2014年のことでした。
プリンスのズボン下げはあてつけか?おごりか?芳雄さんには素晴らしい歌があるし、次々と仕事は来るし、今や押しも押されぬトップスターですから、チャレンジもほどほどにしてもらいたいと思いました。
片や光一さんの方は5年目から演出も自分でやり、内容も一変しました、随分と分かりやすくなりました、すべての出し物、やダンス歌、演目が意味を持ってきました、必要な曲が自分自身の作曲で作れるのはすごい強みですね。ぴったりと場面に合いますから、才能ですね。配役も自分で選べたのでしょうか?
そう言えばカーテンコールの後、前田美波里さんが、光一さんを指さして、「皆さんは知らないでしょうが、この方はえらい方なんですよ」とおっしゃいました。」私は即同感とうなづきました。わかるその『えらい』の意味に共感できると思いました。

そんな二人を応援しつづけてきましたが、夢は叶うものなのですね、舞台共演が『ナイツテイル』で叶い、今また二人で司会してコンサートを進めることができるとは、嬉しい限りです。
当時は20歳でしたが、今や47歳ですから、まさに中央に位置する訳でしょう。時代はあなたたちのものです。もうあなたたちの時代は始まっているのです。
これから先が楽しみです。

事実は小説よりも奇なり!ですからね・・・、何が起こるかわかりません。

最後の肉声

朝日テレビのモーニングショーのページに最後の肉声がのりました。読んでいると涙が出てきます。
本日2投稿目です。
リンクhttps://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/900197124.html

 

「父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして長い間育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう、こんなわがままなものを。よくもまあ本当にありがとう。僕はもっともっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し。みなにうんと恩返しをしなければならないんだ。 
昔は懐かしいよ。秋になればお月見だといって、あの崖下に『すすき』を取りに行ったね。あそこで転んだのはだれだったかしら。雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔は懐かしいなあ。こうやって、みんなと愉快にいつまでも暮らしたい。」

 

「12月8日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生のすべてを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。
人生20年、余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃じょう(おんてきげきじょう)せよ。
すべてを乗り越えて、ただ勝利へ。いくぞ。やるぞ。みんなさようなら。元気でいきます。」

 

もう涙が止まりません、こんな思いをさせた戦争が憎いです。はじめた人がいて。続けた人がいて、終わらせられない人がいて‥‥、もうたくさんです、二度と同じような戦争が起こらないように、若者にこんな思いをさせないようにしっかり見張っていなくてはなりませんね。

終戦記念日に知る「回天」とは?

コリウス(夏水仙)の花が咲きました。枯れそうだったのに最近雨が多くて持ち直しました。
昨日の朝、朝日テレビの羽鳥慎一モーニングショーを見ていて、「回天」ということばをはじめて知りました。
人間魚雷のことで、いわば海の特攻隊という役割の機能を持つ戦闘機だそうです。
21歳慶応義塾大学の学生が,実家に帰省した際に、録音機能がある装置に、メッセージを残したもので、クリアに今でも再生することができ、それを聞きました。

モーニングショーでこの回天という言葉を私は初めて知りました。
片道切符のみを持たされ、アメリカの潜水艦にぶつかって爆破する人間魚雷で、玉の中に入り行く先を操作し、体当たりで爆破し自分も散るというものです。海ですから助かる方法はまずはありません。
ひどい扱いですよね、国家は人を人と思わず、玉の代わりをさせたのです。どういう恥ずかしい国だったのだろうかと、思います。それを誰も言い出す人がいなかったのかと・・・
もう負けてる戦に、どんどん人をつぎ込みますよね、ろくな食事も持たせず、帰ってくるなとばかりに出陣させる、食べ物が無くなれば、村の民家を襲いますよね。
まったく指導部が機能しておらず、人々は玉となり、戦地にその一つしかない命を捨てに行ったのです。

考えると、国家とはすごく危ない団体ですよね、過ち犯しながらもその訂正がされずに破滅へと突き進む。国民を連れて行く。
民主主義が暴ける方法でしょうが、それが間に合わない時がある。
やはり同じ過ちを二度と繰り返さないためにも監視し、ブレーキを踏む必要があるのは国民に対してではなく国家に対してだというのがよくわかります。
それの役割をになっているのが現行の憲法です。
憲法9条を中心にした、二度と戦争はしないという平和憲法です。
縛り監視すべきは国家という権力に対してです。それを忘れてはなりません。
日本人の参加が少ないとか、アメリカから与えられたものだと宣伝する前に、内容が重要です。誰を生かし、誰を監視するのか!ということではないでしょうか?
そして誰の国かということです。

 

(ウキペディアより)

回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり[1]、日本軍初の特攻兵器である[2]。

特徴
回天四型。ハワイのUSSボーフィン潜水艦博物館に展示。
「回天」という名称は、特攻部長大森仙太郎少将が幕末期の軍艦「回天丸」から取って命名した[3]。開発に携わった黒木博司中尉は「天を回らし戦局を逆転させる(天業を既倒に挽回する)[4]」という意味で「回天」という言葉を使っていた[5]。秘密保持のため付けられた〇六(マルロク)、㊅金物(マルロクかなもの)[1][6]、的(てき)との別称もある。

1944年(昭和19年)7月に2機の試作機が完成し、11月20日のウルシー環礁奇襲で初めて実戦に投入された[7]。終戦までに420基が生産された[8]。兵器としての採用は1945年(昭和20年)5月28日のことだった[1][9]。

回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を改造し、特攻兵器としたものである[6]。九三式三型魚雷は

直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に1人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.55tとした場合、最高速度は55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。

回天が実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃、すなわち泊地攻撃が行われた。最初の攻撃(玄作戦)で給油艦ミシシネワが撃沈されたのをはじめ、発進20基のうち撃沈2隻(ミシシネワ、歩兵揚陸艇LCI-600)、撃破(損傷)3隻の戦果が挙げられている。アメリカ軍はこの攻撃を特殊潜航艇「甲標的」による襲撃と誤認し、艦上の兵士はいつ攻撃に見舞われるかという不安にかられ、泊地にいても連日火薬箱の上に坐っているような戦々恐々たる感じであったという[10]。しかし、米軍がこまめに防潜網を展開するようになり、泊地攻撃が難しくなってからは、回天による攻撃は水上航行中の船を目標とする作戦に変更された。この結果、搭乗員には動いている標的を狙うこととなり、潜望鏡測定による困難な計算と操艇が要求された。

回天の母体である九三式三型魚雷は長時間水中におくことに適しておらず、仮に母艦が目標を捉え、回天を発進させたとしても水圧で回天内部の燃焼室と気筒が故障しており、エンジンが点火されず点火用の空気(酸素によるエンジン爆発防止の為に点火は空気で行われた)だけでスクリューが回り出す「冷走」状態に陥ることがあった。この場合、回天の速力や射程は大幅に低下し、また搭乗員による修理はほぼ不可能であったため、出撃を果たしながら戦果を得ることなく終わる回天が多く出る原因となった。また最初期は潜水艦に艦内からの交通筒がなかったため、発進の前に一旦浮上して回天搭乗員を移乗させねばならなかった。当然のことながら敵前での浮上は非常に危険が伴う。回天と母潜水艦は伝声管を通じて連絡が可能だったが、一度交通筒に注水すると、浮上しない限り回天搭乗員は母潜水艦に戻れなかった[11]。また、エンジンから発生する一酸化炭素や、高オクタン価のガソリンの四エチル鉛などで内部の空気が汚染され、搭乗員がガス中毒を起こす危険があることが分かっていたが、これらに対して根本的な対策はとられなかった[12]。

潜水艦は潜れば潜るほど爆雷に対して強くなるが、回天の耐圧深度は最大でも80メートルであったため、回天の母艦となる伊号潜水艦はそれ以上は深く潜行する場合は回天を破損する覚悟が必要であり、敵に発見された場合も水中機動に重大な制約を受けた。そのためアメリカ側の対潜戦術、兵器の発達とあいまって出撃した潜水艦16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈されている。戦争最末期に本土決戦が想定された際は、回天も水上艦を母艦とすることが計画され、海上挺進部隊の球磨型軽巡洋艦3番艦「北上」をはじめとして松型駆逐艦(竹等)や一等輸送艦が改造された。また局地防衛のため、突撃隊などの沿岸防備部隊にも配備された[1]。

操縦方法
操作方法は、搭乗員の技量によるところが多かった。