るりとうわた

日常をつづる

残暑と「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」を読んで


もうモモが出ています。
と言うことはやはり、先日のスイカが初物にして最後ということになりそうです。
実りの秋はもうそこに・・・で、しょうか、美味しい果物も沢山出るといいのですが。
今年の天候はどうでしょうか?
ここ数日の雨模様で、ようやく猛暑が去ったようで、一息ついています。

今年はリコリスの花が五本も咲きました。
1本目と2本目はもう咲いて枯れ、写真は3本目から5本目までが写っています。
今は雨が降って倒れてしまいましたが、その前に写真に撮っておいて良かったです。
5本も花が次々と咲くので、お得感が一杯です。
このまま猛暑が復活しなければいいのですが、高校野球も終わる頃となると、夏仕舞いとはならないものでしょうか?(笑)
ここ数日、書道の提出日も近づき、にわかに1カ月以上ぶりに、道具を出して、清書をしています。
サボる期間が長いと、すっかり筆の力も落ち、散々です。
もう書き散らかして・・・、ものになりません。

お稽古事って、本当に積み重ねなんだと今さらながらに自覚しました。
もう集中力が切れて、いいのが出来ませんが、行書と楷書から、またましな方を先生に選んでもらうようです。

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先日テレビで、今夏放映の『日本のいちばん長い日』の舞台挨拶の様子を映していました。
天皇役の本木さんがあいさつで、「17歳の息子に、もっと早く戦争を終わらせばよかったのに(終わらせられなかったの?かも)と質問された」と言っていましたが、今年、生の玉音放送が流されましたし、この天皇の一声で、戦争が終わるのなら、本当に何故早くそうしなかったのか?誰しも思うことです。
もっともお父さん(本木さん)は天皇の役柄で、その権力はありませんが。(笑)
私は、『日本のいちばん長い日』は昨年本で読んだので、映画は見ていません。
元々天皇アメリカと開戦の時も、「避けられれば戦争はしないで」と言う主張でしたが。
当時は、言論統制で、国民には真実は知らされなかったし、勝利のみの偏った報道で、国民を煽りました。
私自身、こんな勝ち目のない戦争が、なぜ辞められなかったのか疑問で、途中芥川賞受賞作品の2作品を先に読んでしまったのですが、「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」(NHKスペシャル取材班編著)を読んでいました。


これを読んでいると、海軍と陸軍の意見が分かれ、指揮系統が一本化できず、それぞれの思惑で戦線を拡大して行くので、後方支援もないまま未曾有に泥沼化する・・・と、読み進むと、だんだん腹立たしくなってきました。
戦争を起こすのは簡単だけど、終わる方が難しい、それをいかにして終わらせるかを、検討しながら、判断するのが指導者だと思うのですが、それが日本の場合は無かったということです。

日本は、1937年の盧溝橋事件以降の日中戦争の年から太平洋戦争終結の年まで、これだけ首相が変わっています。
34代 近衛文麿(1) 1937/06/04〜1939/01/05
35代 平沼騏一郎 1939/01/05〜1939/08/30
36代 阿部信行 1939/08/30〜1940/01/16
37代 米内光政 1940/01/16〜1940/07/22
38代 近衛文麿(2) 1940/07/22〜1941/07/18
39代 近衛文麿(3) 1941/07/18〜1941/10/18
40代 東條英機 1941/10/18〜1944/07/22
41代 小磯国昭 1944/07/22〜1945/04/07
42代 鈴木貫太郎 1945/04/07〜1945/08/17
陸軍の強硬な姿勢に、歯が立たず、陸軍の言うことを聞く、内閣でなければ、成立せずに、コロコロと変わり、結局陸軍から東条英機が首相となり、総理大臣、陸軍大臣内大臣、商工大臣、軍需大臣、外務大臣、文部大臣、参謀総長の要職を一手に握って権力を集中しました。
ところが、緒戦に勝利し、その後の戦争方針を巡って、陸海軍の対立が収まらない。戦争方針の一本化を調整するため、1942年2月28日「今後採るべき戦争指導の大綱」の原案作成が急がれました。

海軍案:既得の戦果を拡張して、英米の屈服を図る。

陸軍案:既得の戦果を確保して、長期不敗の態勢を確立する。

それに対し、陸軍軍務課長の佐藤賢了が、

折衷案:既得の戦果を確保して、長期不敗の態勢を確立し、機を見て積極的方策を講ず。

と出すものの、海軍は抵抗し、大紛糾する。
その後3月7日

1、英を征服し、米の戦意を喪失せしむため、引き続き既得の戦果を拡充して、長期不敗の政戦態勢を整えつつ、機を見て積極的工作を講ず。

という、両案を取り入れる形となり、何ら調整はなされず、この戦争の停止か拡大か、この歴史的重大な転換点において、国家の指導者たちは決断を下すことが出来なかったのです。
戦争方針の一本化を果たせず拡大策を事実上容認した国策を、官僚たちの作文のまま天皇に上奏された。とあります。
もちろん東条英機はその案を受け取るだけで、自分は意見せず。

そしてそこには絡み合う経済界の利権構造があり、軍が支配している占領地の企業が、天下りの受け入れ先になっていくという、軍と企業の癒着という必然的な構図になっていました。
満州国の満鉄、満州炭鉱株式会社、満州映画協会、満州航空株式会社、満州電信電話株式会社、満州拓殖公社満州製鉄、満州国参議府、満州国協和会、満州建国大学も天下り先でした。
それは海南島、南方でも同じことでした、ちなみに南方で、進出した会社は、海軍の地域で大体100社、陸軍の地域の方が多く400社を上回る会社が動員されたそうです。
こういう利権を巡っても海軍と陸軍は奪い合いだそうです。(ニューカレドニアのニッケル)

ですから、「大東亜共栄圏」というのはあくまでも理念としての解放でどこまで深く考えられていたかは疑問で、現地で過剰生産をしたり経済的混乱に陥っています。
元々石油が欲しいということで始まった戦争で、結局占領地での経済活動も地元経済を破壊するだけに終わってしまいました。

そして1942年5月末、海軍連合艦隊が対米戦の一大決戦と位置付けたミッドウェー島の攻略とハワイへの侵攻です。
この1か月半前、アメリカの爆撃機によって東京が空襲されたことに強い危機感を持った山本五十六が、強い焦燥感を持って、この「職を辞す」との覚悟でこの戦いの臨むものだから、誰も止めようがなく、6月5日ミッドウェイ海戦の火ぶたが切って落とされ、アメリカの2倍の戦力を結集しながら、しかし予想を上回る米軍の反撃により、日本は敗れる。
虎の子の空母四隻、航空機は289機を喪失し、日本の機動部隊はほぼ壊滅した。乗組員・搭乗員の死亡者数は総計3517名と、アメリカの10倍を越え、今後の攻勢はもちろんのこと、戦領地域の防衛にも大きな影響を与える致命的損害と言えた。

この惨敗は、国民はもとより、国家の指導者たちにも共有されることはなく、東条首相には極秘裏に伝えられたが、「『4隻とも全部やられたか』といって、さすがに大臣も『う〜ん』と唸っていましたが、しばらく経ってから『秘密は守ろう。海軍の頼みだから秘密は守ろう。それから、この機会に海軍の非難は一切するな』ということだった」(西浦進・陸軍省軍事課長証言)
この箝口令は徹底され、作戦の失敗をめぐって責任者が処罰されることもなく、闇に葬られたのです。
こういうこともあり、東条英機は無能無策とも言われるのですが。
山本五十六に関しても、海軍の中にあっても非戦派と英雄視されるのは戦後になってからつくられたイメージであり、拡大解釈や深読みがある。

これは日本人特有の誰も責任を取らない、無責任体質の表れでしょうか。
指導者がこれでは、ちゃんとした教育も受けずに戦場へやられる一般兵士は路頭に迷いますよ、捕虜になっても、その基本的なことも教えられず、ただただお国のために、天皇のために死んで来いと、いう扱われ方です。

二度と同じ道を歩まないためにも、政府は過ちを犯すことがあるのですから、この場合は軍事ファシズム軍国主義)でしょうが、やはり、憲法で厳しく縛り、国民は国(政府)を看視をしなければいけないと思います。
民主主義の徹底を行い、国民一人一人が人として尊重されなければならない、基本的人権の徹底です。
そして戦争放棄と平和主義。やはり素晴らしい憲法を手にしました、これを末永く堅持することだと、改めて感じました。

そして、何よりも国民が賢くならなくてはいけませんね。けっしてもう踊らされないように。
若い方が、それぞれの意見で、安保法案への異議を唱え、デモに参加される姿は頼もしいです。
私も自分なりに出来ること、戦争の歴史を知り、その残酷さ、無意味を次世代に繋げていくよう努力しなければと思います。