るりとうわた

日常をつづる

エフェソス遺跡

エフェソスは紀元前11世紀にイオニア(古代ギリシャ)人により建設され、アルテミス神殿を中心に都市国家として発達した。

古典期のエフェソスはアルテミス崇拝で著名であったと言われる、その神殿跡に行きました。
でも、その景観はもう遠い昔?という感じで、今は柱が一本残っているだけです。
もともとこういう低い地に建てられていたようで、小高い丘の向こうにエフェソスの都市の遺跡があるということです。

「紀元前356年、エフェソスのアルテミス神殿に放火すれば後世に名が残ると考えて実行した者がおり、このとき神殿は完全に焼尽した。エフェソスの市民は記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録からその名を削ったが、この試みは失敗し、ヘロスタトスという名が伝わっている。」
その後、アルテミス神殿は再建され、アテネパルテノン神殿よりも大きなものをということで、広さが縦115メートル、横55メートルで、高さ18メートルのイオニア式の柱127本からなっていた。神殿の内部は大理石の板石で飾られ、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成された。」


古代世界七不思議の一つに数えられています。
2世紀にゴート族に破壊され、6世紀には石材として使用するため大部分が持ち出されました。

その後丘の上の遺跡に移動しました。このエフェソス遺跡は東京ドームの約7個分ほどの広さがあり、北の入り口から南の入り口まで1㎞以上あるそうです。

「エフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマ支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。共和制ローマ最末期に第二回三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られている。その後、古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。エフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかったが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小されていった。これは、エフェソスの側にある2つの山から流れ込む土砂の堆積によるものであった。」

アントニウスクレオパトラと聞いただけでもワクワク、ゾクゾクします。(笑)
時空を超えて、同じ大地に立つことができると思うと、シュリーマンの『イーリアス』からの発掘、発見ではありませんが、この地が!という感動があります。
やはり、地球って大事にしなきゃいけないな、と本当に思います。


私たちは逆の南の入り口から入り、石がごろごろ置いてあるところで、現地ガイドさんから「ポンペイの遺跡とどっちが大きいと思いますか?」と聞かれ、思わず「これなら、ポンペイのほうが大きい」とつぶやいてしまいましたが、進むにつれ、こちらの方がはるかに大きく、遺跡が良く残っていることに驚かされます。
エーゲ海側に現存する古代遺跡では最大規模とか・・・(何故世界遺産でないのでしょう)

↑ヴァレリウスの浴場
2世紀に建てられたもので、床下暖房という典型的なローマ風呂の形を残している。


↑バシリカ
オデオンとアゴラの間を通る列柱廊。アウグストゥス帝の治世期の建てられた


↑オデオン(音楽堂)
1500人を収容した小劇場。かつては屋根で覆われていて、コンサートや集会が行われた。


↑市公会堂
かつて聖火が灯され、その火は消えることがなかったと言われる。


↑クレテス通り
左右には様々な建物が並び、右わきには見事なモザイクも残る。
銀座通りを歩いているかのような混雑ぶりですが、港にエーゲ海クルーズでしょうか、豪華客船が入り、バス50台ほどが到着したそうです。
トルコで人気の観光スポットです。
この日は秋なのに、30℃以上でしたが、夏の見学ではこの通りは40℃を超えるそうで、まだましな日ですと現地ガイドさんに言われましたが、中々前に進みません。


ハドリアヌス神殿
2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿で、内側には簡素だが主面玄関の装飾は美しく、手前のアーチの中央には女神ティケ、奥の門には両手を広げたメドゥーサが彫られている。その左右の小壁にはエフェソスの起源伝記が描かれ、神々、動物、などが描かれている。(もっともコピーで、オリジナルはエフェソス考古博物館にあります)

↑公衆トイレ
仕切りはありませんが、下は深く水が流れているので快適な水洗トイレです。


↑ケルスス図書館
見事な2階建てのファサードが目印です。
ローマ帝国アジア州執政官だったケルススの死後、息子が父の墓室の上に記念に築き上げたものです。


20世紀初頭に発見されたときは相当破壊されていたが、1970年代に修復された。正面には知恵、運命、学問、美徳の4つの意味をそれぞれ象徴する女性像がある。この壁を支えているのがコンポジット式(コリント式とイオニア式の混合形式)の柱頭、上部はコリント様式になった大理石の円柱。
内部は平屋ですが、1万2000巻の書物が所蔵されていたといわれている。


↑マゼウスとミトリダデスの門
皇帝アウグストゥスの奴隷マゼウスとミトリデダスが、解放に際し、皇帝一家への感謝をこめて建てたもの。

アルカディアン通り
港から大劇場を結んだ大理石の道路で、まさにアントニウスクレオパトラが歩いたという道路です。
幅11m、長さ500mの道路沿いには商店が並び街頭も灯されていた。
港に船がぞくぞくと着き、栄華を極めた映像が浮かびます、今は海もずっと離れています。


↑大劇場
アルカディアン通りの先にあるのが、ビオン山に沿って造られた大劇場です。
演劇の上演や全市民参加の民会の会場にもなり、市民にとって大切な場所であった。ヘレニズム時代に建設され、ローマ時代になって各部分が拡張された。2万4000人を収容できたという大観客席は直径154m、高さ38mの半円形。
座席の中段より写真を撮りました。


↑北の入り口の近くから見た大劇場。
ビオン山一つを使っているのがよくわかります。

こんなに大きくて残っているものも多い遺跡で、しかも観光客も多くて、何故世界遺産でないのかを、現地ガイドさんに聞きますと、「発掘がまだ14%しか出来ていなくて、20%を超えてから申請するというか、世界遺産と認められる」という風に言っていました。
また、それに関して、トルコの人々は、世界遺産だ、そうでないということにそれほど関心がないと言っていました。
最近新しく一つトルコの世界遺産が承認されたので、バスの中で拍手を送りましたが、トルコ内ではニュースにも出なかったということです。
コンヤの新石器時代遺跡・チャタルホユックで、これでトルコの世界遺産は11個です。
そして来年はいよいよ富士山と鎌倉の世界遺産登録の可否が決まりますね。