るりとうわた

日常をつづる

秋深し

復元された木馬
急激に寒くなってきましたね、もう11月ですね。
はやくも晩秋ですが、残暑が長かっっただけに、Tシャツ1枚で過ごせる快適な季節が短かったような気がします。
トルコの旅行記を書く書くと言いながら、中々取り掛かれず、日々の忙しさに巻かれています。(笑)
旅行中は全部自分の時間だったのですが、家にいるとそういうわけにもいかず、なかなかパソコンの前に座れません。
金木犀の剪定はしたし、ミニコミ会も順調で常時10名は集まるという具合で、延べ人数にしたら倍以上です。このところほかの街区からも行ってもよいのか?と問い合わせがあったりで、夏の頃の2〜3人で、子供にも加わってもらってラジオ体操をしていたのが遠い昔のように感じます。
また今何よりも目の前に迫っているのが、文化の日の踊りの発表です。
公民館活動の集大成というか、1年の練習の成果を見ていただく日です。
日舞(新舞踊)だけでなく、ハワイアンからフラメンコや三味線や民謡といろいろありますが、全員揃って練習が出来ていないのが、ちょっと不安です。
先生にもおさらい会や勉強会の内輪の発表ではないからね、人に見ていただくという自覚を持ってと言われ、とにかく全員の踊りを揃えること、身体の角度や扇子の高さが不ぞろいでは気持ち悪いからね、と口を酸っぱくして言われています。
休んでいた私には耳が痛いですが、昨日行くと、他の人が休んでいて…と、明日一日に掛けます!(笑)

トロイ遺跡


トルコは今、掘れば遺跡がごろごろというか、必ずぶつかるぐらい、まだ発掘されていないものが沢山あるそうです。
トロイ遺跡は「ホメロスイーリアス』の舞台となったトロイ、10年に及んだ戦争の中で、色々な勇者が出てきて活躍し、最後は木馬に潜んだギリシャ軍が町に火をつけて勝利したという有名な話です」が、その話を信じて、全財産を投じて探し当てたシュリーマン(ドイツ人)のことはあまりにも有名な話です。
そのシュリーマンについてhatenaの紹介はこうです。

Heinrich Schliemann(1822−1890)。ドイツ人。貧しい家に生まれ、事業で成功した。46歳の時、トルコ旅行中にトロイア遺跡の話を耳にして、財産をつぎ込んで発掘した。子供の頃からトロイアに関心があったとか、語学の天才だったとか、自伝に書いてあることはほとんど嘘で、金にあかせて売名をした成果としてその名声がある。著書を出すと批評家に金をやって賞賛させ、ある未知の人物が書評を書いたときは、すぐに小切手を送ったという。またシュリーマントロイアだと思った場所は、大国トロイアのごく一部に過ぎなかった。古代ギリシャ語もまったくできなかったに等しいことが今では証明されている。ツァンガー『甦るトロイア戦争』に詳しい。

と書かれています、辛辣です。

Wikipediaでは、自著は「後付けの創作である可能性が高い」としながらも

彼は『イーリアス』を読み込んだ結果、トロイア市はヒサルルク(ヒサルルック)の丘にあると推定した。1870年に無許可でこの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得て発掘調査を開始した。1873年にいわゆる「プリアモスの財宝」を発見し、伝説のトロイアを発見したと喧伝した。この発見により、古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなった。

プリアモスの財宝」はオスマン帝国政府に無断でシュリーマンによってギリシアアテネに持ちだされ、1881年に「ベルリン名誉市民」の栄誉と引き換えにドイツに寄贈された。第二次世界大戦争中にモスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に移送され、現在は同美術館で公開展示されているが、トルコ、ドイツ、ロシアがそれぞれ自国の所有権を主張し、決着がついていない。

彼は発掘の専門家ではなく、当時は現代的な意味での考古学は整備されておらず、発掘技術にも限界があった。発掘にあたって、シュリーマンオスマン帝国政府との協定を無視し出土品を国外に持ち出したり私蔵するなどした。発見の重大性に気づいたオスマン帝国政府が発掘の中止を命じたのに対し、イスタンブルに駐在する西欧列強の外交官を動かして再度発掘許可を出させ、トロイアの発掘を続けた。こうした不適切な発掘作業のため遺跡にはかなりの損傷がみられ、これらは現在に至っても考古学者による再発掘・再考証を難しい物にしている。

と書いています。
現地ガイドさんも、とにかく掘り当てた金銀財宝を持ち出し大金持ちになったと当時はまだ考古学の意識も低かったことを言っていました。
まあ日本でもほとんどの古墳なども暴かれているので、同じことでしょうか。

トロイの地に集落が出来たのは紀元前3000年頃で、初期青銅器の文明の頃です。
紀元前2500〜2000年ごろにエーゲ海岸の交易の中心地として繁栄したそうです。そのご栄えては滅びるを繰り返し、トロイは全部で9層にわたる都市遺跡を形成したそうです。
トロイ戦争は(紀元前1200年)10年に及ぶ攻防で滅亡への道をたどる。
この頃の10年は第7市とされています。

発掘し、層ごとに数字が張り付けてあります。
その結果「イリオス遺跡は都市というよりは城塞である(ただし、周辺一帯の大規模な発掘によっては、曲輪の外側に都市機能が認められる可能性はある)。第VII層Aはすぐに崩壊し、後に貧弱な第VII層Bが続いていた。その後に第VIII層、第IX層が続くが、これらはギリシア人・ローマ人による町の遺構である。」とされています。

でも石文化というのは凄いですね、「三匹の子ブタ」のお話ではありませんが、3000年経っていようが丈夫ですから残っています。

第Ⅸ市の生贄の祭壇(中央)と
ニムファイオン(泉水殿)は右側です