るりとうわた

日常をつづる

広島原爆の日と「非核三原則」


暑いですね、玄関の植え込みもぐったりという感じです・・・
関東でも、正真正銘の猛暑、35℃以上が1週間も続いています。
異常気象ですね、自然はどうしたのでしょうか。

この暑い中、高校野球も開幕しましたが、8月6日は日本人にとって忘れることが出来ない、いや人類にとって忘れることが出来ない、広島原爆投下の日です。
70年前の今日8時15分、1発の原子爆弾が、人々の住む大地を一瞬にして焦土と化し、14万人の命を奪いました。その後も放射能の影響で苦しむ人々が続きました。

今日の平和式典には、海外からも過去最多の100カ国と欧州連合(EU)代表部が参列し、核保有5大国では米英仏露の代表が出席し、米政府高官として初めてガテマラー国務次官が参列した。中国は欠席した。

その中での安倍首相

広島原爆の日:首相「非核三原則」に触れず 平和記念式典

毎日新聞 2015年08月06日 08時55分(最終更新 08月06日 15時34分)

 広島は6日、米国による原爆投下から70回目の「原爆の日」を迎えた。松井一実広島市長は平和宣言で、いまだに遠い核兵器廃絶に対し「そのための行動を始めるのは今だ」と呼びかけ、平均年齢が80歳を超えた被爆者の支援策充実も求めた。国会で議論が進む安全保障関連法案には直接の言及はしなかった。また、安倍晋三首相はあいさつで「核兵器のない世界を実現する重要な使命がある」と述べた一方、歴代首相が触れてきた「非核三原則」の文言は盛り込まなかった。

安倍首相は昨年と一昨年の挨拶文が同じ内容で、コピペか?と言われ、今年は変えられていたそうですが。その大事な非核3原則「核兵器を製造しない,保有しない,持ち込みを認めない」を、意図的に省いたということでしょうか?
と、勘ぐりたくなりますよね・・・

こちらでは言われたそうですが。

広島原爆の日被爆者たち「非核三原則なぜ盛り込まぬ」

毎日新聞 2015年08月06日 11時53分


 ◇歴代の首相が平和記念式典で触れてきたが…

歴代の首相が平和記念式典で触れてきた「非核三原則」。安倍晋三首相が被爆70年の節目に言及しなかったことに、参列した被爆者たちからは戸惑いや憤りの声が上がった。

 式典で市民代表として献花した広島市中区の主婦、木下百合子さん(70)は「なぜ盛り込まないのか。今年が戦争へ向けた転換期にならないといいが」と不安を口にした。原爆で兄を失った広島県廿日市市の主婦、岡村豊子さん(74)は「核兵器の無い世界の実現を願っているのに残念」と話した。

 安倍首相は式典後、広島市内のホテルであった被爆者団体からの要望を聞く会に出席。その場では非核三原則の堅持を明言したが、式典のあいさつで触れなかったことに、被爆者団体からは不満の声が聞かれた。

広島被爆者団体連絡会議の吉岡幸雄事務局長(86)は「非核三原則は、原爆犠牲者の上にできた国の基本的考え方だ」と指摘し、「式典で慰霊碑に向かって非核三原則に触れてほしかった。このままでは犠牲者たちは安らかに眠れないのではないか」と話した。広島県原爆被害者団体協議会の坪井直理事長(90)は「都合の悪いことには式典の場であえて触れなかったんだろう」と語った。

 一方、政府はこの日、原爆症認定の審査期間を短縮する方針を示したが、被爆者からは「遅すぎる」とあきらめの声も。白内障と舌がんに苦しんだ尾道市の三次義人さん(87)は「この年ではもう申請する気がない」と話した。【加藤小夜、成田有佳、立野将弘、瀬谷健介】

これは、国民の思いと、首相の思いがいかに、かけ離れているかを、如実に表わしていると思いました。
唯一の被爆国で、しかも3,11で、原子力発電の安全神話が崩壊した時、この危険な地震国に、これだけの原子力発電を持つことを、良しとしない国民の意思に反して、再稼働に踏み切る、政府と国民の意思の隔たりと同じだと感じました。

きっと先の戦争で、一方的に戦線を拡大し、負けると分かっていて、兵士を鉄砲玉の価値にしか扱わなかった政府(政治の上層部)と同じ匂いがします。
先日2日のNHK9時からあった密室の戦争 〜発掘・日本人捕虜の肉声〜というのを見ました。

オーストラリアのアメリカ軍施設に造られた個室で尋問を受け、その一人一人の記録が録音されて残されていました。
アメリカ軍は、それらの捕虜の尋問から、日本人の特性(義理と義務)を見出し、また補給路や部隊の場所の情報を得、のちの戦略の役に立てるということです。
それはきめ細かくて、その地位や部署によって、細かく対応し、ただ驚いたことに、捕虜になった時の対処の仕方は何も教育されていず、ポロポロと部隊名やその場所を聞かれたまま言う人もあり、その後の作戦に実際大いに役立ったそうです。
赤紙一枚で召集され、とにかく教育もなく、死んで来いということか、と思うと、人間として尊重されず、物と同じ命の軽さに、胸が詰まります。
アメリカ軍では、捕虜になった時は、名前と年齢、ナンバー(兵士)以外は全く答えるなと教育されていたそうです。
中には、「明日言いますから」と言って、自殺した人もあり、また東大出で、英語が堪能な捕虜には英語で尋問し、もうお互いの会話から、日本に勝ち目のないことが理解できていて、「この戦争を早く終わらすために協力してくれ」と米軍は求めます。
それは南方での、投降用のビラの文章を作成するというものでした。
私も以前その呼びかけのチラシの文面を見た時に、これは日本人が作った文章では?と思いましたから、こういう形で捕虜の方が関わっていたのですね。

それを求められて、日本語で話させて欲しい(微妙な部分なので)、「戦争を早く終わらせたいけれど、上司の命令は絶対で、軍も国民もそれしかない。それを自分はすることは出来ない、日本に帰った時、どうなるか、理解されないし」「でもこの戦争を早く終わらせるために、でないと死者はもっと増える。それを止めたいなら、協力して欲しい」この方の苦悩の様子が伝わりました、途中「死を選びたい」と訴えるのですが、「それは出来ない、逃げるのか?(ちょっと言葉が違うかもですが)」というように言われ、彼は投降文の作成に協力し、アメリカも彼にアメリカ名を与え、そのような名前で記録に残します。
「自ら命を絶たず、命を大切に」と訴える名文でした。
その方は戦後日本に帰り、翻訳に打ち込みこのことは一切口外せず、10年前かに亡くなられたそうです。その胸中やいかに・・・
その記録のことは今回子供さんたちに告げられました。

まだ民主主義が日本になかった時代です。
もっともそのアメリカもその後ベトナムイラクと戦争をしていますが。
その民主主義が。国民自身のものになるように、きっと自分自身で考えないといけないのでしょうね。
それは、早や70年ではなくて、まだ70年なのかも知れません。
まだ民主主義は成熟中なのかも、日本は婦人参政権もまだ69年と考えると短いですね。
政府は守ってくれませんから、自分たちで、本当にNOと言えなくては。
また日本をどこへ持って行こうとしているのか、二度と同じ道は歩みたくありませんから。
私は、この戦争がなぜ辞められなかったのか?そのまま突き進んでしまった疑問が解けません。今は「日本人はなぜ戦争へと向かったのかー果てしなき戦線拡大ー」を読んでいます。