観劇
昨日、久々の観劇で三軒茶屋に行きました。
世田谷キャロットタワー内世田谷パブリックセンタ―での演劇鑑賞です。
この会場は600席というこじんまりとした会場ですが、マイクなしの舞台として、程よい大きさで、とても好きな会場です。
何で今、遠野物語で、柳田国男なんだ?という時、この現代なのか未来なのか分からない、警察署の取り調べ室から始まる導入部は意表を突かれ、引き込まれました。
また仲村トオルさんの声が舞台映えのする声で、もちろん姿もですが、圧倒されます。
サスペンスが始まるのか?事件物か?色々と期待させます。
しかし取り調べられる側の柳田国男役です。
そこで参考人としてササキという青年が、現れ、語りだす…(中々上手い導入部でした、舞台上と一緒に過去に入って行けます)
そして、その舞台上の舞台で「遠野物語」が展開します。
少し長くなりますが、全文載せてみたいと思います。
脚本・演出の 前川知大さんが、序文を語っておられ、この執筆中に東日本大震災が起き筆が止まってしまったことを書いておられます、非日常が日常となったと。
「遠野物語・奇ッ怪 其ノ参 」
スタッフ/キャスト
【作】 柳田国男 (「遠野物語」角川ソフィア文庫)
【脚本・演出】 前川知大【出演】
仲村トオル 瀬戸康史
山内圭哉 池谷のぶえ 安井順平
浜田信也 安藤輪子 石山蓮華
銀粉蝶序・あらすじ
■ ストーリーライン
今は昔、あるいは未来。舞台となる世界は、現実から少しずれた架空の日本。
社会の合理化を目指す「標準化政策」により、全てに「標準」が設定され、逸脱するものは違法とされた。
物事は真と偽、事実と迷信に明確に分けられ、その間の曖昧な領域を排除した。管理の整った首都圏は標準に染まり、地方も固有の文化を失うことで衰退しつつある。
作家のヤナギタは、東北弁で書かれた散文集を自費出版したことで、任意同行を求められた。
方言を記述したうえ、内容も迷信と判断され、警察署の一室で事情を聞かれている。
迷信を科学的に解明することで著名な学者、イノウエが召喚され聴取に加わった。
ヤナギタは、書物は標準語と併記のうえ、内容も事実だと主張する。
それはある東北の青年から聞いたノンフィクションであり、流行りの怪談とは違うと話す。
しかしイノウエは、書かれたエピソードは科学的な解明が可能なものに過ぎないが、奇ッ怪なように
書くことで妄言を流布し、迷信を助長するものであると批判する。
散文集のエピソードについて二人が議論をする内に、次第にヤナギタが著作に込めた思いや、イノウエが怪を暴き続ける個人的な理由が浮き彫りになっていく。
そんな中、ヤナギタに物語を語った東北の青年、ササキが警察署に現れる。
イノウエはササキに真意を求める。
しかしヤナギタはササキが現れたことに動揺している。彼は今ここに居てはいけないのだ…。
散文集(「遠野物語」)のエピソードを紹介しながら、ヤナギタとイノウエは真と偽、事実と迷信、この世とあの世といったものの、間(あわい)の世界へ迷い込んでいく。
■序 前川知大 (2016.8.25)
『奇ッ怪』も三作目となる。この連作は、日本の古典を今の感覚で読み解くという企画だ。
そして現代の怪談というようなものを好んで書いてきた私は、まずは「怪」という題材を選び、
『奇ッ怪』としてスタートした。
ここでひとつ、この連作の成り立ちを振り返ってみたい。
そうすることで、今回なぜ『遠野物語』なのか、ということが見えてくるはずだ。一作目は小泉八雲の怪談を題材にした。
八雲の怪談は再話と呼ばれる。再話とは、語り継がれてきた
昔話や伝説を現代の言葉で書き記した文学のことだ。
語りから文字になったものを、演劇によって再び語り、つまり音に戻す試みだった。
舞台上、登場人物は八雲の怪談を語りはじめ、それが目の前で起きる出来事へと
スライドしていくように展開した。
そして物語=過去を語るうちに、語り手の現在が浮かび上がるという構成だ。
メインの語り手だった男が死者であったことが分かり、物語は閉じる。この構成は能の夢幻能といわれる形式にとてもよく似ている。
夢幻能とは、まず僧が旅先で人に出会い、その土地の悲劇的な縁起を聞く。
しかし実はその語り手こそが悲劇の当事者であり亡霊であったことを知る。
亡霊は僧に話を聞いてもらうことで成仏していく。この夢幻能の形式に意識的になったことで、
『奇ッ怪』のコンセプトは実は「怪」よりも「語り」の方に比重が置かれるようになった。
なぜ語らなくてはならないのか。それは言い残したことがあるからだ。
語り手は死者。能の根底には「鎮魂」という目的がある。
一作目の客観的理解を経て、二作目『奇ッ怪 其ノ弐』は能と狂言そのものを題材にした。一作目が「語ること」に主眼を置いたなら、二作目は「聞くこと」に主眼を置いた。
鎮魂とは、死者の言葉に真摯に耳を傾けることだからだ。
では、死者とは誰か。
能の演目から題材を取らず、日常の中で言い残された言葉や聞いてもらえなかった言葉を
拾い上げることにした。
行き場のない、受け取ってもらえなかった言葉たちが、小さな死となり澱のように溜まっていく。
それがゆっくりと人の心を殺す。そのような物語を書いていた。公演は2011年の夏。執筆途中に、東日本大震災が起きた。
数えきれない死者と、膨大な言い残された言葉、宛先を失った言葉が生まれた。
演劇は今を映す。鎮魂をテーマをした作品で、この未曾有の出来事を避けて通ることは出来なかった。
ただ荷が重く、筆が止まった。この時期に、死者の言葉を代弁することなど私にはできなった。
ある日断ち切るように失われた日常を淡々と描くことで、物語は幕を閉じた。
奇ッ怪なエピソードを語る演目だったはずが、日常で終わった。その時は日常こそが非日常だったからだ。
今日と同じように明日がある、と思い込むのは実は奇ッ怪なことだと誰もが思い出した。
あまりに今(当時)に寄り添いすぎた『奇ッ怪 其ノ弐』を、
私はしばらく読み返すことが出来なかった。
正直に言うと、三作目に手を付ける最近まで、四年以上も開くことが出来なかった。
あれほど混乱の中で書いた本は無く、何を書いたかほとんど思い出せず、怖くて開けなかったのだ。そして三作目。なぜ『遠野物語』なのか。それはこれが鎮魂の書であるからだ。
岩手県遠野に語り継がれてきた伝承を聞き、書き記したもの。
柳田國男はそこに書かれたことは「事実」であるという。
『遠野物語』はいわゆる怪談ではない。
そこに書かれたことはそのまま現象として、当時の人の眼前に現れたはずだ。
奇ッ怪に思われる出来事は、かつて日常に組み込まれていた。
近代化と合理主義によって日常が変わってしまったから、奇ッ怪に見えるのだ。
『奇ッ怪 其ノ弐』の頃、日常が奇ッ怪になってしまったように。『遠野物語』は近代化によって失ったものへの鎮魂であると同時に、現代人が日常と思っているものを揺さぶろうとする。
揺さぶっているものはなにか。
それは失ったもの、私たちが葬り去ってきたもの、つまり死者だ。
私たちは死者の上に立っている。どこへ行こうにも逃げることはできない。おそらく物語とは、死者との対話から始まっている。
なぜ物語が必要なのか。
それは私たちの今を見つめるためだ。
日本人はどこから来てどこへ行くのか、と柳田國男は考えた。
もちろん地理的なことだけではない。
社会を前進させる為の取捨選択が、常に正しかったわけではないことは歴史が証明している。
捨ててしまったものが何だったのか、よく見てみることは必要だろう。一作目では「語ること」を、二作目では「聞くこと」を主眼に置いたと書いた。
三作目ではそもそも「なぜ物語が生まれたのか」ということを主眼に置いて『遠野物語』を語ってみたい。
柳田國男は『遠野物語』を世に出すことで、何を語ろうとしたのか。
明治四十三年(1910)という近代化が進む変化の時期に『遠野物語』は出版された。
二十一世紀になり、社会の変化はますますスピードを上げている。今『遠野物語』を語ることで、私たちが失って久しいもの、失いつつあるもの、そしてどこへ向かおうとしているのか、考えてみたい。
これを読んでいると、この『奇ッ怪』の1が小泉八雲で、その2が能・狂言だったということですから、これらも観たかったですね。
この3部作とも仲村トオルさんは出演されているそうです。