るりとうわた

日常をつづる

平等院鳳凰堂と宇治上神社

先月末に帰郷した時に、もう年金暮らしになるし、交通費を使わずに楽しもうということで、途中下車で行ける所を探しました。
京都は何回か行ったことがあるので、少し京都から離れていて、これまでいく機会のなかった洛南に焦点を絞りました。
まず行きに、平等院鳳凰堂宇治上神社です、いずれも世界遺産に指定されています。
宇治駅に下車、街中の道を京都側へ少し戻ると、宇治川に掛かる宇治橋に出ました。


その宇治橋の袂に、紫式部の像があります。


上の写真は案内板です。

平安時代初期の貴族の別荘があった地域で、、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台となったところで、その宇治側沿いに、千年の歴史を感じることが出来ました。
この案内板から門前町のような土産物店や御茶屋の並ぶ道を進むと、平等院鳳凰堂に出ます。
現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも言われる左大臣である嵯峨源氏源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立されました。

私達の日常生活では、10円玉の裏の絵として、常々身近に感じられると思います。(笑)

ちょうどこの頃、私は今、松岡正剛の「日本という方法」-おもかげ・うつろいの文化ーというのを読んでいて(今も)、これがとても面白く、この時期の見学の参考になりました。
この奈良末期から平安時代というのが、まさに日本独自の文化が生まれてくる過程として、3つのことが書かれています。
その1が、漢字から仮名が生まれたこと、その2が、漢風の様式と和風の様式が、いろんな場面で両立していったこと。その3は紀貫之が編集にあたった勅撰集『古今和歌集』の序文に漢字だけでなく、「仮名序」が並列されたことをあげ、日本文字が日本の文化を創っていったことが説明されています。

さて、この平等院鳳凰堂の脇を流れる宇治川を渡ると、すぐ宇治神社があり、その上山側にあるのが宇治上神社です。
宇治川の中に小さな中州があり、ぐるりは桜が植えられていますが、まだ1〜2分咲きで、真ん中にある枝垂れ桜は満開でした。
下の写真は宇治上神社で、茅葺の拝殿と本殿の屋根が見えています。

宇治川の東岸の朝日山の山裾には、神社建築では、日本最古の本殿である宇治上神社が鎮座する。
拝殿(国宝)は、鎌倉時代前期に伐採された桧が使用されており、鎌倉時代の優れた建物遺構。」平等院ができるとその鎮守社とされた。

下の写真が拝殿に、御簾が掛けられ、寝殿造の趣きを伝えています。

本殿(国宝)は平安時代後期に伐採された木材が使われて、一間社流造りの三殿からなる。
下の写真が神社建築では、日本最古の本殿といわれる宇治上神社の本殿です。

見えている本殿は覆屋で、中に本殿が3つ並んでいる(左右の社殿が大きく中央の社殿が小さい)そうです。
境内にある湧き水は桐原水と呼ばれ、宇治七名水の一つとされています。
下の写真で、拝殿の奥に見えている瓦屋根の下が、桐原水の湧き水です。

すぐ後ろには朝日山が迫り、質素な佇まいに、千年近い歴史を感じます。
ここは入場券がありませんでしたが、木造建築のまま存在するのは貴重です。
平等院もそうですが、こういう建物、仏像や、壁画に、庭園まで残っていることは本当にかけがえのないものだと思いますので、大切に後世に残して欲しいとおもいました。