るりとうわた

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福島第1原発の現場、報道陣に初公開


爆発で原子炉建屋が破損した(右から)4号機、3号機、2号機、1号機。事故から約8カ月が経過した今も無惨な姿をさらしていた=福島県大熊町の福島第1原発で2011年11月12日午前10時59分(代表撮影)
昨日12日細野豪志原発事故担当相は、東京電力福島第1原発を視察、その際記者団も同行して敷地内に入り、3月11日の事故発生後、敷地内が報道陣に公開されたのは初めてです。
動画も見つかりました。

以下の文章は毎日新聞JPより

水素爆発で建屋の上半分が吹き飛んだ東京電力福島第1原発3号機に、報道陣を乗せたバスが差しかかった。「1ミリシーベルトです」。同乗する東電職員が車内の1時間当たりの放射線量を大声で知らせる。平日は約3000人の作業員が復旧にあたり、政府は「原子炉の状態は安定している」と強調するが、爆発のあった3、4号機では壁の一部が今なお崩れ、津波に流された車やがれきも残されたまま。事故から8カ月。初めて公開された原発構内に入った。
 午前10時、原発から南に約20キロの「Jヴィレッジ」(福島県広野、楢葉両町)をバスで出発した。車内の放射線量は毎時1.5マイクロシーベルト。靴は二重にビニールで覆い、軽い不織布製のつなぎの防護服を着用。綿の手袋の上にゴム手袋を重ね、綿の帽子に布のマスク。いずれも東電指定の装備だ。

 警察の検問を抜け、一般の立ち入りが禁じられた警戒区域内に入る。国道6号を北上する途中、時折作業員を乗せた車や警察車両とすれ違う。それ以外に人の気配はない。駐車場には置き去りにされた車が止まり、「営業中」の札がかかった飲食店も無人原発事故以来、街の時間は止まっている。

 約30分後、原発から約3キロの駐車場で全面マスクの装着を指示される。額とあごが圧迫され、息がしづらい。

 午前10時40分ごろ、福島第1原発の正門に到着した。放射線量は毎時15マイクロシーベルト。「50マイクロシーベルトです」「100マイクロです」。正門を入り、貯水タンクや汚染水処理施設の制御室などを過ぎて中を進むと、東電職員の叫ぶ数字がみるみる大きくなっていく。

 約5分後、1〜4号機から南西約600メートルの高台でバスが止まった。

 壊れてはいけないものが、崩壊している。最も南側の4号機の原子炉建屋は、厚さ1メートルの壁がところどころ崩れ、骨組みが露出している。記事では何度も書いてきた「安全神話の崩壊」を、初めて目の当たりにした思いだった。

 西側の崩れた壁の間からは、定期検査中のため外していた格納容器の黄色いふたが見える。北側の3号機の上部で、残っていた骨組みが内側に丸まり、爆発のすさまじさを証言する。

 坂を下り、バスは1〜4号機の建屋と海との間の道に入った。途中、車内の放射線量は毎時200マイクロシーベルトに上昇。車窓からは作業員の姿が。われわれより高い放射線にさらされながら事故収束にあたる姿に、頭を下げた。

 海側には高さ約4メートルの仮設の防潮堤が築かれていたが、よく見ると石を詰めた袋を積みかさねただけ。建屋側には津波で流された車やがれきが放置されている。道を進むと次第に線量は上がり、3号機横ではこの日最高の毎時1ミリシーベルトに達した。

 午前11時40分、緊急時対策本部のある免震重要棟に到着。ここで初めて原発の敷地を足で踏んだ。装備を外す。わずか1時間半程度だったが、全面マスクの息苦しさと圧迫感はつらかった。大きく息を吸える開放感にひたりながら、夏場も防護服に身を包んでいた作業員の苦労を少しだけ想像できた。

 午前9時から午後2時半ごろまでの記者の積算線量を確認すると57マイクロシーベルト。胸部X線の集団検診1回分に相当する。安全とされる所を選んだ短時間の取材でも被ばくは避けられない。廃炉を含め30年以上に及ぶ事故収束への道のりは険しい。【笈田直樹】

異様な光景は爆発の凄さを現し、まさに安全神話が壊れた現場です。
MSNの他の写真です。



爆発で原子炉が破損した3号機=12日午前、福島県大熊町の福島第1原発(代表撮影)


重機を使って復旧作業に従事する作業員=12日午前、福島県大熊町の福島第1原発(代表撮影)

事故で無残な姿をさらす東京電力福島第1原発3号機の原子炉建屋上部=12日午前(代表撮影)
こういう現場で日々3,000人近い方が事故処理のために働いています。
そして、吉田昌郎福島第1原発所長は記者の質問に答え「爆発の時に、死ぬかと思った」と、そして被ばく線量を聞かれ「個人情報だから言えない」と。
ここで働いておあられる皆さんが安全で、健康であることを祈るばかりです。
どれだけ電力が必要であれ、こういう事故は二度と起こしてはなりません、そのためにも原発の停止、廃止が必要です。

映像もそうですが、直接係わっている方の話も、これまで出たことがありませんでした。
記者と所長とのインタビューがありますので、載せておきます。
同じく毎日Jp より

 東京電力福島第1原発吉田昌郎所長と記者団の主なやりとりは次の通り。

 −−報道陣の前で初めて話すことになるが、国民にまず何を伝えたいか。

 ◆私が責任者の発電所で事故を起こしてご迷惑、ご不便をおかけしたことを心よりおわびしたい。日本全国、世界から支援の手紙や寄せ書きをいただき、特に被災された福島県からの支援の言葉は大変励みになっている。

 −−これまで一番厳しかった状況は。

 ◆やはり3月11日からの1週間。次がどうなるか私にも想像できない中、できる限りのことをやった。感覚的には極端に言うと「もう死ぬだろう」と思ったことが数度あった。

 −−1号機が水素爆発した時の状況とその時、感じたことは。

 ◆まず「ボン」という音を聞き、「何なんだ」と。現場から帰った人間から「1号機が爆発しているみたいだ」という情報が入ってきた。3号機は音と、(テレビの)画像で見た。4号機は本部にいて音は聞いたが、2号なのか4号なのか分からず、その時は(どちらか)判断できなかった。

 −−「死ぬかと思った」時とは。

 ◆1号機の爆発があった時、どういう状況かが本部では分からなかった。現場からけがをした人が帰ってくる中、格納容器が爆発していれば、大量の放射能が出てコントロール不能になる(と思った)。3号機も爆発し、2号機の原子炉にもなかなか注水できず、先が見えない。最悪の場合、メルトダウンもどんどん進んでコントロール不能になるという状態で「これで終わりかな」と感じた。

 −−危機を脱したのはいつごろか。

 ◆(爆発の)次は4月初めに高濃度の汚染水が漏れ、水処理(設備)を一生懸命造った。6月いっぱいぐらいまではかなり大変な思いをした。全体のシステムとして本当に安定したのは7、8月だと思う。

 −−原子炉の現在の状態は。

 ◆私がデータを見て確認している限り、原子炉は安定していることは間違いない。ただ「超安全」ということではない。線量は非常に高く、日々の作業という意味ではまだまだ危険もある。周辺住民に安心いただける程度に安定しているが、(事故収束の)作業はまだ厳しい状況だ。

 −−1、3号機は燃料が溶融しているが、安定させられるのか。

 ◆原子炉の各部の温度変化などを見る限り、燃料が外に出ていたとしても、圧力容器だけでなく格納容器も含めて、原子炉全体が冷却されており、安定だと判断している。

 −−今困っていることは。

 ◆今日明日の問題というわけではないが、近い先を見ると、作業員の被ばくや、どういう形で人を回していくのかが頭の痛い課題だ。

 −−所長自身の積算放射線量は。

 ◆個人情報なので差し控えるが、それなりにはなっている。

 −−今後の取り組みは。

 ◆(事故収束工程表の)ステップ2の確実な終了が一つの目標。現場の状況を踏まえ、(中長期の)次のステップ(に必要なこと)を考えて提言し、作業をこなすことが福島県民のニーズに応えることになると思う。