るりとうわた

日常をつづる

小布施散策


旅館で頂いた上のガイドブックが一番詳しくてわかりやすいです、さすが地元です。
朝風呂を済ませ、7時半から食事で、朝食もお品書き付という豪華メニューでした。
小布施ヨーグルトが爽やかで、野菜たっぷりの食事も完食です。

8時45分にホテルの車で駅まで送ってもらい、9時2分の電車に乗りますが、次の信州中野駅で、長野方面に乗り換えて小布施へ行きます。
乗り換えた電車で、子供たちの遠足が社会見学の団体と同じ車両になり、先生が遠慮して、別の車両に移動させようとするので、皆で「いいです」「いいです」と断りました。
子供の団体といっても、12人ぐらいに先生が2人という、恵まれた環境です。
孫でも36人で、少なくなったと思いましたが、娘たちの時には45人でしたから、少ない方が、断然交流も深まるので、いいのではと思います。

小布施駅に到着です。9時45分ぐらいでした。
朝の作戦会議で、何しろ徳島組が、長野駅2時発の切符を持っているので、それに繋げるように、まず1時までの小布施タイムということです。
考えてみれば、昨日2時に着いて、今日は2時発ですから、まさに24時間の滞在で、長野小布施巡りです。
昨日散々、こういう温泉旅館の宿泊は1泊ではもったいないよね、これから2泊のしようと言う案も出ました。
ただ、彼は奥さん(結婚前から私たちも知っています)と同行だったのですが、奥さんのご両親と同居で、二人で出掛けるのを嫌がるということで、今回は1人参加でした。

岩松院の葛飾北斎の天井画と、小布施ミュージアム・中島千波館の「淡墨桜」を見て、北斎館の3館は必ず見学と絞りました。
それで、駅に着いたらタクシー移動にしようと話しあったのですが、そのタクシーの姿が見えず、タクシー電話というのがあり、掛けると15分以上待ち、というので、時間が無駄になりそうで再考です。
上の写真は小布施駅前の写真です、ここにガイドコーナーがあり、一人が相談すると、9時57分発の周遊シャトルバスに乗り、1時間に1本なので、次のバスまで浄光寺と岩松院を見学することにしました。

浄光寺の山門です。
これが中々風流な出で立ちで、感激しました。
寺伝によると天平2年(730年)に、僧玄明が草堂を建て、大同4年(809年)に再建された。室町時代初期の代表的建築物で国の重要文化財に指定されています。

薬師堂までの参道も自然で、その時代にタイムスリップしたような感覚を覚えます。
神戸の人は水墨画をしているので、「もうその世界そのものだわね」と言うと、「描けそう」と、細かく写真を撮っていました。

この薬師堂の景観が素晴らしいです。

この茅葺の厚さ、これは平成22年に吹き替えとありましたから、新しいです。

下り道で、こういう碑も見つけました。
ここで、善光寺では忘れてしまったご朱印帳を出しました。

岩松院までは歩きです。畑の向こう側に北アルプスの山並みに雪が乗っていましたが、見えるでしょうか?望遠で撮りました。

そして車窓で見かけて、思わずジャカランタの花と勘違いした、桐の花です。メキシコボケ?(笑)

高原で涼しいはずの信州なのに、猛暑並みの暑さで、もう汗だくです。

その暑さの中でも、リンゴの手入れに余念がありません。

こちら葡萄も、沢山の小さな実をつけていました。
次にきたのが、葛飾北斎の肉筆画が残されている岩松院(がんしょういん)です。

室内や作品は撮影できないので、またHPから写真を借りてきます。「八方睨み鳳凰図」です。

天井絵というからにはもう少し大きな絵を想像していましたが、これでも21畳というので、上にあるので、それほど大きく見えないようです。
ただ、今色を塗り終えたばかりというぐらい鮮やかな色合いには驚かされました。
乾燥具合が良いので、こういう保存状態ということのようです。
江戸の末期の嘉永元年(1848)北斎89歳の作品で、岩絵の具は中国より輸入した辰砂・孔雀石・鶏冠石などの鉱石を用い、その価は150両。金箔を4400枚使用し、色彩・光沢も少しも変化していない北斎晩年の最大作品ということです。

上の本堂の中にありました、せめて外からの写真でも。
そしてこちらには福島正信の霊廟があります。本堂のさらに上の位置です。

この上の廟がそうですが、元和5年(1619)広島城の石垣の修復が武家諸法度に触れたとして、50万石の大名からの国替えとなり、信州川中島に2万石、越後魚沼郡に2万5000石の計4万5000石に減封となる。しかし領内の新田開発に取り組み、特に松川の乱流を防ぐ「大夫の千両堤」は今も史跡として保存されています。
64歳で世を去り、この岩松院を菩提寺として、海福時という寺号をつけたそうです。

そしてこの本堂の庭にある碑(木と木の間)の前にある池に、ヒキカエルが集まり、カエル合戦の池として有名で、俳人小林一茶はこの様子を見て、「やせ蛙まけるな一茶これにあり」と詠みました。
その句碑です。中々歴史的意味のあるお寺でした。

ここで客を降ろしたタクシーに出会い、おぶせミュージアムまで乗りました。

会館の近くの道に咲いていた芍薬です、いろんなところに花が咲いています。

中の撮影は出来ないので、おぶせミュージアムの建物です。
現代日本画壇で活躍している中島千波(男性です)の、桜や牡丹などみずみずしく華やかな花の作品が常設されています。
水墨画をしている神戸の友のたっての願いが叶いました。

そしてその近くにある北斎館です。

浮世絵師・葛飾北斎の美術館ですが、浮世絵は無く ここは小布施で描かれた肉筆画、画稿、書簡などを元に開設されています。画像はHPより

私はその肉筆画に感動しました。極彩色に塗られた鳳凰図などは時間を掛けた作品でしょうが、墨で描かれた上に色づけした作品などは、さらさらと書いた感じなのに、存在感があり、首をしなだれた女性の艶やかなこと、男性は描かれた筋肉が逞しく、曲線が生きています。
この人ほど色んな絵の描ける人もいないですよね、春画から風景画から動植物と、感性も若々しく、まさに天才です。
天保年間、江戸の日本橋白銀町で、呉服商などを営む小布施出身の十八屋を介して、高井鴻山が北斎と出会い、そして天保13年(1842年)の秋、北斎83歳のとき初めて小布施の鴻山(時に37歳)のもとを訪れます。
このとき鴻山は北斎の卓越した画才を見抜き、自宅に碧漪軒というアトリエを建てて厚遇し、北斎に入門した。北斎はこの時、一年余りも鴻山邸に滞在したという。鴻山は北斎を「先生」と呼び、北斎は、鴻山のことを「旦那様」と呼び合った。そして、弘化5年(1848年)、北斎(89歳)は四度目の小布施来訪時、岩松院の天井絵を完成させている。
当時の小布施は北信濃の経済の中心地として栄え、小布施文化の華開いた時代でしたとパンフにあります。

高井家は代々酒造業で富みを築いた豪商で、鴻山は早くから遊学に京都や江戸に出て学問を学び、また佐藤一斎門下の佐久間象山大塩平八郎らとも交流を持ち、鴻山も攘夷論公武合体論を説いた。さらに蘭学も研鑽した。三年後の天保7年(1836年)に起こった天保の大飢饉に際しては小布施に帰郷し、祖父同様窮民のために倉を開き、これを救済した、ということです。

上の写真の北斎館から高井記念館を通り、栗の角材を敷いた歩道が続き、栗の小径と呼ばれているそうで、この中にオープンガーデンがあり、丹精込められた庭を拝見しながら、通り抜けることが出来ます。

そのごこちらの栗の木テラスで一服です。

そして名産品のモンブランとコーヒーを頂きました。

ここで相談の結果、徳島組と違い、神戸・名古屋組は急ぐ必要はないので、ここで別れ、小布施散策を延長することにしました。
その前に美味しいモンブランとコーヒーを味わいつつ、来年の場所と担当者を決めました。
やはり行ったことがない地で、道後温泉が候補に挙がり、徳島組が担当者となり、お土産を買うと言うので、ここで別れました。
来年は私が遠くなります、まずは2泊で計画してもらおうと思います。(笑)


私たちもお土産を探しながら、オープンガーデンを通りながら散策です。

栗菓子や、落雁を見ながら品定めです。

お昼はお茶にしたので、おなかが空いてきました、そこで昨日食べなかったおやきです。

これで名物も頂くことが出来ました。

かんてんパパのお店の松の木が良いと話し合いました。(笑)
カフェで別れたのが1時でしたが、あれからもう2時間近く歩きました、3時前の電車に乗り長野に向かいました。
長野小布施間は1時間に3〜4本の電車があるので、これは便利です。終点の湯田中温泉までが2時間に1本のようです。
私はちょうど3時半の新幹線に乗りました。
途中お腹が空いたので、早い夕飯にし、竹風堂の栗おこわを頂きました。(420円)

これが、また美味しいでした、付け合せのゴボウやナスの醤油煮も合っていて、大絶賛です。
半分食べて、残りは家に帰ってから食べました。
手前は一口パクっといってから、そうだ写真を撮ろうと思ったので、空いています。(笑)

涼しいはずの長野も暑かったですが、小布施の文化遺産に感動しました。