るりとうわた

日常をつづる

シラクーサからノートの花絨毯、カルタジローネの花階段


タオルミナに2泊し、3日目はバスでシラクーサへ移動します。

今日もエトナ山は綺麗に見えています。ぐるっとエトナ山のすそ野の周りを移動するように南西に進みます。

シチリア島は四国の1,4倍で、イタリアの最大の州で、地中海最大の島です。
州都はパレルモで、漁獲量はイタリアNO1です。
地中海のほぼ中央に浮かぶシチリア島
この島は三千年の昔から数多くの文明が交錯してきました。
東から来て島の礎を築いたギリシャ人、北から来たローマ人、南から来たイスラム教徒、西から来たノルマン人やスペイン人・・・文字通り文明の十字路として数多くの人々が行き交ってきたのです。
各々の文明が島に残した遺産は、現在のシチリア島でもモザイクのように色褪せぬ光を放っています。

かの文豪ゲーテに「シチリアなしのイタリアは、私達の中に何も形作らない。シチリアにこそ、全てを解く鍵がある」とまで言わしめたシチリア島。(旅行社の文章です)

そんな古代都市の面影が残るシラクーサの見学です。

小高い丘の上にあるギリシャ劇場です。林の向こう側には海が見えます、こちらも見晴らしの良い場所です。
紀元前3世紀に、ピエロン2世時代に着工されました。
1万5千人もの人が収容出来、今夜も、劇が催されるようで、すでに舞台装置が取り付けれていました。


周りはもちろん補修されていて、当時のものもありますが、ローマ時代に補修されて、また現代も補修しては円形の客席になっています。

その劇場のまだ上にある洞窟のような祠の中に滝のように水が流れています。
水の精のニンフの神殿と水飲み場だそうですが、水を引き上げて流しているそうです。
この島では、びっくりするぐらい高い崖の上に集落や町が出来ていて、水はどうするのだろう??と疑問に思うのですが、何らかの方法があるのですね、感心します。

そのすぐ脇にあるのが、↑「天国の石切り場」と言って、良質の石が奴隷によって切り出された場所で、手前の林も石が切り出された後で、奴隷にとっては”地獄”のような場所だったのでは、と想像します。
その切り口が、耳の形に似ているので、「ディオニシオスの耳」と呼ばれる穴です。


丘を下り、海辺の町オルティージャ島の中心に来ました。
が、まったく磯の香りがしません、シチリア島をグルと4分の3回るのですが、海の近くを通っていても、まったく磯の香りがしません。
それは、シチリア島に川がなく、川がなければ、海に流れるプランクトンもいないと言うことで、栄養がなく海で海藻が育たないそうです。(自然の摂理です)
岩は石灰石ですし、海藻がないので、海は青い色と言うことです。海藻が育てば、その海は緑色になると言われました。(たしかに)
それで、磯の香りがまったくしないのです。では、漁は深い海まで出ると言うことですよね、漁獲量1位なんですから。

バロック様式の広場に

紀元前5世紀のアテナ神殿が7世紀に教会(大聖堂)になりその後、たびたび手を加えられたが、2本並びの列柱は威厳を保っていました。

堂内には、写真のような巨大なドリア式柱が完形のまま残っています。(感激です)
次にシチリア島で一番古いドーリア式の神殿、紀元前6世紀のアポロ神殿を訪れました。↓

破壊が激しい神殿ですが、ビザンチン時代には教会に転用され、アラブ時代にはモスク、ノルマン時代には教会に戻り、スペイン時代には兵舎になり、1938年構成の付加をすべて取り除き、現在の(古代のかな)姿になりました。(前列に6本の柱が残っています)


ノートは、1693年の大地震で大きな被害を受け、元々の町から6km離れたこの地に新しい町を造りました、
バロック様式の18世紀の建物が並び、「ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々」として2002年に世界文化遺産となりました。

ノートの人々は新しい町の完成を祝って、春になると道に花を敷き詰めて飾るようになります。
「インフォラータ」とは花を敷き詰めると言う意味で、この花絨毯の祭りに参加します。
↑「レアーレ門」市民公園にある目抜き通りへの入り口にあたります。
3日間の祭りで、その最終日で日曜日の、午後3時40分と、この人ごみに嫌な予感が・・・

目抜き通りの真ん中にある大聖堂の階段には人々が座り、通りでは劇が始まっています。
要するに通り抜けることが出来ないと言うことです。

凄い熱気です、で一本上の道へ出ることにします。

こちらはこちらで、鼓笛隊のパレードが始まっていて、見物客で凄いです。
地方のお祭りの一番の盛り上がりの時に、外国人が紛れ込んだという印象です。
もっとも、アジア人は私たちぐらいですが、ヨーロッパ人は地元の人か、外国人か?まではわかりません。

パレードの流れに逆行して進むので、中々前へは行けません。
ようやく到着しました。
花絨毯の一番上です。

確かに花びらが敷き詰められています。
こんな混雑しているのなら、1週間でもやればいいのですが、生花ですから、そういう訳には行きませんね、3日が限度です。
テーマは中国だとか、でも中国の方は、まだそんなに見かけませんでした。
私たちは今、一番上に居て、この縦の通り一面に花が敷かれ、絨毯の模様のようになっています。
それを上から下へと見ていきます、添乗員さんが昨年も上から下へ降りたと話していました。
するとすぐに回りからブーイングが起こり、係りの人が飛んできて、下から上の一方通行で、下りれないと言います。
添乗員さんは、昨年は片方が上りで、片方が下りだったと言いますが、今年は両方上りだけだそうです。

下りることが出来ないと言うことで、私たちは鼓笛隊のパレードの流れに逆らって、さらに次の辻まで行き、そこを下りました。
花絨毯の登り口には長い長い行列が出来ていました。
私たちのレアーレ門の集合時間まで、さっきは1時間ありましたが、無駄な動きで30分しかなく、並んでいても観ることは出来ないでしょう。
するとこの通りの目の前の教会が屋上を見晴らし台に解放していて、一人2ユーロで螺旋階段を通り、上げてくれます。
教会がお金を取る?というのも現金なはなしですが、ガーデニングに興味のある方は、この花絨毯の見学があるのでこの旅行を選んだと言う方も居ますから・・・
すると添乗員さんから、「お金は出しますので、上からの見学としましょう」と太っ腹で予定変更です。
まあ去年の知識が役に立たなかったので、仕方ありません。

下から順に写します

これが2番目です。

そしてこれが3番目です。たしかに絨毯柄を観ている気はしますが、それが花で作られたという気はしません。
側で、これは何の花だ、何の花びらだと言って見れたなら実感が湧いたことでしょう。

花の絨毯見学の列が大聖堂まで続いています。これで、町が一望出来て良かったです。
帰りは大聖堂の見学がてら、聖堂内を突っ切ります。
でも中に入れなくて、大回りしました。

今度は目抜き通りで、パレードが始まったようです。
町が出来た当時の服装でのパレードのようです、また逆行になってしまいます。

歩道は狭くて、パレードの見学で、坐り込んでいる子供たちがいるし、

で、つい前の方のように道路に降りて歩いてしまいます。

するとパレードの馬車を引いている馬がいて、パレードが止まってしまいます。
レアーレ門が見えてきました、祭りは佳境なのに、帰り道を急ぐのは外国人ばかりで迷惑な話です。(心で謝りながら・・・)
だって、まだまだ祭りに参加の人々が集まっていますから、これから夕方にかけて盛り上がるのでしょう。
日没も8時過ぎです。
これはバスの中で、順番を逆にして、先に早朝にノートの花絨毯の見学を終えて、シラクーサの見学をすべきと、みなさん言い合いました。
私たちには、劇もパレードも関係ありません、花絨毯だけの見学の予定でしたから。
まあ、すんだことです、来年の参考に、(笑)
で、翌日は花階段です。

4日目は標高608mの丘の上に広がる灰褐色の屋根、その高台の町の中に進んでいくと、色鮮やかな美しい焼き物の装飾建築に出会います。

この町ではイスラム支配だった頃から盛んだった陶器づくりが今でも受け継がれています。
街中に来るとこんな乗り物が用意されていました。観光用でしょうか、バスの運転手さんが運転します。貸切になったと言いましたから、他の方も乗れるようです。

すべて登り道なので、体力温存が出来ます。(笑)


どことなくイスラムの雰囲気が残っています。

見えて来ました、花階段です。

142段の階段がありますが、その階段の正面に貼りつけられた陶器の絵柄が違います。
体力温存が出来たので、一気に階段を上ります。途中撮影をしながらです。(笑)

色調はブルー系とイエロー系ですが、植物や動物、そして人物等絵柄が異なります。

花は鉢植えなので、花絨毯と違い、長持ちします。


階段の両側には、陶器店が並びます。
上から街並みを見下ろします、上らないと見れない景色です。

また上には、サンタ・マリア・デル・モンテ教会があります。

12世紀に創建されました。142段の階段の上にですよ。

淡い水色に塗られた天井が特徴だそうです。

午後は、小山に囲まれた景色の中にあるピアッツァ・アルメリーナの旧市街地からさらに5km西に向かうと、そこに3世紀から4世紀のローマ帝政時代の大富豪貴族の別荘カサーレがあります。
ため息の出る、ゴージャスなモザイクの床が一面に広がります。160もの動物の顔のモザイクです。

これは凄いです、一目瞭然と言うか、当時の服装、暮らしぶりも瞬時にわかりますから、驚きです。

モザイク画がきれいなまま、それが現在まで残っていることが凄いです。

地震の時に横の山が渦れて、土砂下に埋まってしまったそうで、20世紀に入り発掘が進み、1997年世界遺産に登録されました。現在も発掘は続いているそうです。

ビキニ姿の乙女たちのモザイク画もあります。

狩りの様子を描いたモザイクも鮮明です。
古代から続いている今を感ぜずにはいられません。