るりとうわた

日常をつづる

松方コレクション

昨日この特別番組「情熱の人・松方幸次郎」を見ました。
大正から昭和初期にかけて、西洋美術品を、「日本人に一流の芸術を見せたい。」という思いで、膨大な私財を投入じた実業家・松方幸次郎の波乱の生涯をが描かれていました。
松方コレクションは知っていても、その御本人の松方幸次郎さんの事は良く知らなかったので、とても興味深い番組でした。

アメリカで大学生活を過ごした幸次郎は、川崎正蔵に請われて川崎造船場の初代社長となる、その後神戸新聞社を作る。
先見の明ありでレディメイド船をつくり、ロンドンにて、第一次世界大戦中、その船を各国に売って、業績が大いに上がります。
その時に1枚のブラングィンの絵をセリ落としたことが、西洋絵画を集めるキッカケとなりました。
審美能力の備わった秘書・岡田友次氏と、その後8000点の浮世絵を10万ポンドを鈴木商店に前借して、取り戻します。
(それらは皇室に献上され、のちに、その7500点が国立博物館に収蔵、写楽の貴重な作品や鈴木春信 の浮世絵があります。)
1916年から1923年にかけて、パリを中心にヨーロッパ各地で若い矢代幸雄氏らと数千点におよぶ西洋の絵画、彫刻、工芸品を収集しました
1918年、パリ美術界の重鎮に教わってロダンを知り、「優れた美術品を見ることが、物を造る人の教育になる。」と感じ、ロダンの彫刻の第一鋳造権を得る。「地獄の門」、「考える人」、「カレーの市民」、アダム(ミケランジェロへのオマージュ)、エマ54点の作品が、西洋美術館にあります。

またフランスにて、姪の紹介で日本趣味のモネに招かれた幸次郎は「あなたの絵を日本人に見せたい」と睡蓮他を購入。(それらはブリジストン美術館大原美術館に収蔵。)
松方氏はこれらのコレクションをもとにして、東京に共楽美術館を設立し、日本で西洋の美術作品を見る機会を提供しようという構想をもっており、ブラングィンが設計図を作成していました。
1923年関東大震災後、世界恐慌の影響で経営が破綻し、美術館の構想は断念します。
昭和になり、関税が100%となり、海外の絵を日本に持って来ることが出来なくなります。
大恐慌の時に職を退き、第2次世界大戦となり、イギリスの倉庫に置いていた300点余りが戦火で焼けてしまいます。
松方氏の秘書的仕事をしていた日置孝三郎氏は、ロダン美術館に置いてある400点の松方コレクションをドイツ軍に破壊されるのを恐れ、ナチス軍の侵攻の前に、フランスの田舎アボンダンの自分の家に隠し、ナチに見つかることなく終戦を迎えます。

6年後の1951年、財産を返還しフランスのものとなり、吉田首相はサンフラン講和条約後すぐにフランスに赴き「松方コレクションは個人のためではなく、国のため、フランス文化をしらしめるために購入したもので、返して欲しい。」と伝えると、
フランスからはあっけなく「YES」と返事がきて、「やっぱり文化国家は違う」と感じたそうです。
それらが、西洋美術館に展示されています。
ただ19点の貴重な名画はフランス国のものとして返還されず、フランスのオルセー美術館にその11点があります。
それらは松方コレクションと表示されています。
ゴッホの「アルルの寝室」(下の画像)、ゴーギャンの「扇のある静物」他、マネーの「ビールジョッキを持つ女」ロートレックの絵などが紹介されました。

また番組では、その日置さんが、隠していたアボンダンの現在の家を訪れます。
修理はされているものの、そのままの面影を残した住宅に、とても感激しました。
その村人たちは、今も当時のように「日本人の家」と呼んでいるそうです。
その後孫の話では、その後衆議院議員をしていた松方氏が、東条英機氏に、「おまんさ首相をやめなされ」と言ったということを、回りから聞かされたと証言がありました。
本当に戦争に次ぐ戦争で、「日本の若者に本物の絵や彫刻を見せたい。」という願いは、松方幸次郎氏の生存中には叶えることは出来ませんでした。
1950年、84歳で死去。
その後1959年に国立西洋美術館で公開されるに至りました。(コレクションをはじめて40数年後です)

みんなのために文化的作品をみせたいという公共精神で、1点の作品も家に飾らなかった、という情熱の人でした。
こういう風に歴史に翻弄され、回り人々の協力によって、私たちがその貴重な美術品類に、直接触れることが出来るのだと自覚しました。
また、そういう思いの上にたって、再度それらの美術品を鑑賞してみたいと思いました。(笑)

国立西洋美術館のホームページです。
http://www.nmwa.go.jp/jp/index.html

画像出典:IPA「教育用画像素材集サイト」