るりとうわた

日常をつづる

ポーランドとリトアニアのつづき

下の続きで、杉原さんの功績はリトアニアでも評価され、ヴィリニュスには彼の名前を冠にした「スギハラ通り」が生まれ、彼を記念して桜の植樹も行われています。
このカウナスの旧日本領事館も杉原記念館として保存されています、ですから私たちはこうして訪れ詳しく知ることが出来ました。

その後の杉原氏はプラハ、ドイツ、ルーマニアへ人事異動し、最後はシベリアで抑留生活をし、1947年に帰国した彼に、外務省は「君のポストはない」と依願退職させます。(ようするに首ということです)
1960年ロシア語が出来、ロシアに精通していたので、貿易会社のモスクワ事務所で働き、75歳で、鎌倉の自宅に隠棲し、最後はその自宅で1986年86歳で亡くなられています
1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の諸国民の中の正義の人として「ヤド・バシェム賞」を受賞。
同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われ、高齢の杉原氏に代わって息子(四男)さんが出席したそうです。

新版 六千人の命のビザ

新版 六千人の命のビザ

日本政府の立場としては

ドイツとの関係から公然とユダヤ人を助けることは事実上不可能だったが、真意としては千畝のビザ発給に対して黙認に近い立場だったのではないか、という見解がある。主な論拠は、仮に日本政府がユダヤ人を通過させることを断固として拒否するならば、千畝のビザによる日本入国を何らかの形で阻止するのが自然であるのに対して、実際は多くのユダヤ人たちが陸路で、敦賀から神戸まで辿り着き、さらにアメリカやパレスチナなどに向かった1,000人以外はその後も日本の勢力下で終戦を迎えるまで過ごしていたという事実である(実際には、杉原ビザで日本に渡航しようとしたユダヤ人たちは、入国審査で発給条件を欠いていることを理由に入国を拒否される事件が起きて当時の新聞で報道される事態になったが、これらの難民たちは、神戸猶太協會と駐日オランダ大使館の奔走によって入国できるようになった)。更にビザ・領事特別許可証発給へも大した制止行為を行わなかった。また、当時の日本政府が民族差別反対の立場をとっていたこともある。

拒否はせず許していたと言う感じでした。
海外で「千畝(ちうね)」と発音しにくいので、彼はわかりやすく「千畝(センポ)」と名乗っていました。
それで戦後、杉原氏の消息を尋ねるユダヤ人協会からの問い合わせに、それが杉原氏をさしている事は当然推測されたにもかかわらず「日本外務省にはSEMPO SUGIHARAという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答していたそうです。

日本の外務省が名誉回復をしたのは、1991年と半世紀も経ってからでした。
その年の10月に鈴木宗男外務政務官次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っている旨、また、50年にわたって外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていたことは不幸なことであった旨を伝えました。
また、杉原氏の生誕百周年に当たる2000年(平成12年)に、外務省は、杉原氏の業績をたたえる顕彰プレートを外交史料館に設置した。
その序幕式で当時の河野外務大臣は、故杉原氏とその遺族に対して、

これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

と語り、戦後の外務省の対応について、初めて外務省の非礼を認め正式に謝罪をしたということです。
諸外国においても、シンドラーに比較すると知名度は低いが、一個人として救ったユダヤ人の数はシンドラーの何倍にもあたることもあり、高く評価されています。

1997年第70回アカデミー賞短編映画賞授賞(実写)
政府の命令に逆らって、6000人のユダヤ難民を救うため2000枚のビザを発行した"日本のオスカー・シンドラー"杉原千畝氏の実話を映画化した『ビザと美徳』が受賞。舞台で主演したクリス・タシマが監督・主演を兼ねた作品である。

リトアニアの杉原記念館のサイト

日本の杉原千畝記念館のサイト

日本のテレビでは1992年にフジTVで「命のビザ」加藤剛主演、これを見た記憶があります。
その後、2005年日本TVで「日本のシンドラー杉原千畝物語・六千人の命のビザ」反町隆主演でありました。

今年はポーランド負の遺産ですが、強制収容所跡、オシフィエンチムアウシュビッツ)と第二収容所となるビルケナウを見学してきます。