るりとうわた

日常をつづる

名古屋巡り(1)


昨年は鎌倉巡りをした大阪時代の友人と、17日18日と名古屋巡りをしてきました。
2年間は青春時代を過ごした大阪で集まったのですが、それからは住んでいる友人の地元巡りになり、徳島、鎌倉(神奈川県=私)と巡り、今年は名古屋へ集合となりました。
6人の予定だったのですが、お義父様が亡くなられた方と、家族同然のペットがリールをつけたまま脱走(行方不明)してしまい、前日に急きょ2人が欠席となり4人で名古屋駅に集合です。
挨拶もそこそこに、というか速攻に時間が戻り親しく馴染んだ顔に戻るのが不思議と言えば不思議です。(笑)
すでに資料として送ってくれていた「名古屋観光ルートバス」巡りです。
そのバス停で、友人に「あれあれ」と指差されたのが、上の写真のミッドランド スクエア=豊田ビルです。(中央)
尾張名古屋は城でもつ」とうたわれたのは過去のこと?で、今はやはり「世界のトヨタでもつ」なんでしょうか。(笑)
もっとも苦戦をしいられていますが、大きいことには違いない、しかし日本経済が厳しいのも今の世です・・・

メーグルという一日バス乗車券を500円で買い、街をメーグル(巡る)で、名がついたそうです。
11時発、まず最初はその世界のトヨタトヨタミュージアム産業技術記念館を訪れました。

古いレンガ壁が残されています。

この産業技術記念館は、1994年6月、名古屋市西区・栄生の地に開館しました。往時の様子をとどめる豊田自動織機栄生工場(トヨタ自動車工業より移譲)を産業遺産として保存しながら、近代日本の発展を支えた基幹産業の一つである繊維機械と、現代を開拓し続ける自動車の技術の変遷を通して、日本の産業技術史について次代を担う人たちへ系統的に紹介するための施設です。

織機の発明に一生を捧げた豊田佐吉。その長男として自動車製造に取り組み、トヨタ自動車工業を創業した豊田喜一郎産業技術記念館は、豊田佐吉が『發明私記』にも記した飽くなき「研究と創造の精神」と、自動車の国産化に挑んだ喜一郎が情熱を注いだ「モノづくり」の大切さを、広く社会に伝えることを基本理念として活動しています。

豊田佐吉さんが最初に発明したのは木製人力織機で23歳の時で、その後2〜3年ごとに新しい織機を開発、発明し1924年「無停止杼換式豊田自動織機(G型)」発明・完成したのは57歳の時です。


それまで機織りは一人で動かしていたのが、一人で4台を見ることが出来るようになり、その後自動化することにより、一人で30台の機械を動かすようになり、30倍の生産UPとなるわけです、そして何百倍にも。もう横糸は目にも止まらぬ速さで移動します。
織機の開発にかけた人生だったようで、そこで蓄えられた資金を息子の喜一郎に託して「わしは織機をつくってお国に尽くした。お前は自動車をつくれ」と、自動車産業が始まったという説明でした。

そしてノリタケの森でランチタイムにしました。
名古屋市西区にある公園、レストラン、ミュージアムなどを含む複合施設。ノリタケカンパニーリミテドによって同社の本社に隣接する工場跡地に作られ、2001年10月5日に開場したそうで、当時の煉瓦のの工場跡が使われています。

幕末の動乱期、御用商人だった森村市左衛門は、鎖国が解かれた日本から大量の金が海外へ流出するのを目の当たりにしました。洋学者の福沢諭吉から、「金を取り戻すには、輸出貿易によって外貨を獲得することが必要だ」と説かれた市左衛門は、国のため自ら海外貿易を始めることを決意します。そして明治9年(1876)、東京銀座に貿易商社「森村組」を創業、弟の豊(とよ)をニューヨークに送って輸入雑貨店「モリムラブラザーズ」を開き、本格的な海外貿易を開始しました。ここに、ノリタケのあゆみが始まりました。

ノリタケという名前の由来が知りたかったのですが、地名だということが分かりすっきりしました。(笑)
次第に陶磁器が増え、磁器を日本で作りたいと研究を進め、明治37年(1904)、ノリタケカンパニーの前身となる「日本陶器合名会社」を創立し、愛知県鷹場村大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた大工場を建設しました。とありました。
日本初のディナーセットを完成させたのは、10年後の大正3年(1914)で、やがて「ノリタケチャイナ」の名で世界中に知られるブランドへと成長していったということです。
もう来る前から買うと決めていた友は「ノリタケチャイナ」のティーカップを購入していました。

午後の部は徳川園から名古屋城に至るエリアを文化のみちといい、江戸、明治、大正と続く近代化の歩みをつたえる建築物巡りです。

徳川園に行き公園内を散策し、二葉館へ向かいました。

立派な洋館で、大正時代に「日本の女優第一号」と言われた川上貞奴が居住していた和洋折衷の建物を移築復元したものです。
中もとても豪華で、素敵なステンドグラスがあり、女の住居にしては?と思うと、電力王と称された福沢桃介が、大正から昭和初期にかけて、貞奴と共に暮らしていた邸宅というので納得です。(笑)
ちなみに川上音二郎亡き後ですが、お互いは早くに知り合い、それぞれ別の結婚をし悲恋の相手だったということです。

桃助は福沢諭吉の娘婿で、当時、慶応義塾の先輩である矢田績に招かれ、「名古屋電燈(株)」の取締役に就任した桃介は、木曽川での水力発電を進める為に名古屋に拠点を構え、事業パートナーとして貞奴を呼び寄せたとも言われています。
それで各部屋にも電燈がたくさんついていました。

「ここで貞奴は、毎日やって来る大勢の客への茶菓や晩餐の手配に追われる傍ら、川上絹布の経営者としての仕事もこなしました。また、電車で3時間かかる木曽のダム建設現場へ出かける桃介に同行することもありました」
「その後、病気がちになった桃介は東京へ戻り、貞奴も「川上児童楽劇園」の指導のため、次第に拠点を東京へと移していきます。」ということです。
貞奴が使った部屋や着物が展示されています。


撞木(しゅもく)館により、その後名古屋市市政資料館(重要文化財「旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」)へ行きました、ネオバロック様式の煉瓦造りの建物ですが、この日は休館日で中には入れませんでした。

名古屋城は見て通過です、何度も乗り降りしたので、メーグルはお得で、たくさん巡りました。
最後に地下鉄で不思議な建物、オアシス21にきました。

この上に行けるというのでおのぼりさんです。
中央は大きな水槽になっていて、噴水がある近未来型公園(オアシス)です、下の名古屋のシャンゼリゼ通り?とテレビ塔が見えます。

ホテルにチェクインし、受付で手ごろな料金でおいしい店と教えてもらった「世界のやまちゃん」=居酒屋で夕食です。
乾杯しながら、名古屋名物味噌カツや串揚げ、あと色々と食して、話で盛り上がりました。(笑)
ホテルに着いたら、雷が鳴り、雨が降り出しました。
私たちの日ごろの行いが良かったようで、セーフでした。(笑)